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異色の風俗画家・英一蝶

今日1月13日は、はなやかな元禄期の江戸を中心に活動した多芸な画家・英一蝶(はなぶさ いっちょう)が、1724年に亡くなった日です。

1652年、医者の子として京都に生まれた一蝶(本名・多賀香信)は、絵の好きな父の影響を受けて育ちました。15歳のとき、父が伊勢亀山藩・侍医となって藩主に付いて江戸詰めとなったため、一家で江戸へ転居しました。

絵描きの才能を認められた一蝶は、藩主の命令で狩野安信に入門して、狩野派の絵を学ぶや、たちまち町絵師として活躍をはじめます。しかし一蝶は、絵ばかりでなく俳諧にも親しみ、松尾芭蕉に高く評価されるほどでした。さらに、書道にも秀でるほど多芸で、絵も、幕府おかかえの狩野流にあきたらず、浮世絵や土佐派の絵も研究して、町の風俗を積極的に絵に取り入れました。そのため、師から破門されてしまいましたが、町人たちからは大かっさいを浴びたばかりか、当時の豪商・紀伊国屋文左衛門 らからもひきたてられ、旗本、諸大名、豪商まで、広く親交を持つようになりました。

吉原遊廓通いも好きで、客として楽しむいっぽう、幇間(たいこもち)としても活動しました。みごとな話術と愉快な芸に、豪商や大名の殿さまさえもいつのまにか散財してしまうほどだったと伝えられています。しかし、そんな風俗画家として名声をほしいままにしながら、自由人としてくらす一蝶をにがにがしく思っている人たちもいました。

そのため、1698年47歳の時に、幕府に逮捕されて、三宅島へ11年間も流罪となってしまいました。5代将軍徳川綱吉の打ちだした悪名高い「生類あわれみの令」に対する違反だといわれていますが、大名や旗本たちをそそのかして遊郭通いに金銀を浪費させたからとか、一蝶の絵の中に綱吉を侮辱する部分があったとか、明確な理由はわかっていません。当時の三宅島は、飲料水にも不自由するほど厳しいものでしたが、持ち前のねばりで生き抜きました。配流中の罪人には、年に何度か物品を送ることを許されてはいましたが、一蝶は仕送りにはいつも絵の具を要求し、江戸の風俗を見てきたように生き生きと描き続け、のちに、この時期に描かれた作品は「島一蝶」と呼ばれ、評判になっています。

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1709年、綱吉の死去により、将軍代がわりの大赦によって江戸へもどった一蝶は、ふたたび、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけ、ふたたび遊郭の人気者になりました。晩年は風俗画から離れ、枯れた味わいのある山水画や花鳥画を多く描き、江戸絵画史に大きな足跡を残しました。


「1月13日にあった主なできごと」

1199年 源頼朝死去…武士による初めての政権となった鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が亡くなりました。

1653年 玉川上水…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、町人(玉川)清衛門、庄衛門兄弟に建設を命じました。多摩川上流の羽村から四谷まで50km余に水を通す出す大規模な難工事で、翌年6月、江戸市内に流れこんだ清流に、江戸市民は躍り上がって喜びました。江戸の人口は、17世紀末には100万人に達し、ロンドンやパリを越えて世界一だったそうです。

1864年 フォスター死去…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家フォスターが亡くなりました。

1935年 ザールがドイツ復帰…ドイツとフランスの国境にあり良質な石炭に恵まれ鉄鋼業や工業が盛んだったザール地方は、第1次世界大戦後ドイツ本国から分離され、フランスの保護領になっていました。この日の住民投票の結果、ドイツへ復帰、ヒトラーはこれをナチスの勝利として、さらに領土拡大のために軍備を整えていきました。

投稿日:2012年01月13日(金) 05:39

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)