今日12月14日は、望遠鏡時代がはじまる前の最大の天文観測家といわれるデンマークのブラーエが、1546年に生まれた日です。
デンマークの貴族の家に生まれたチコ・ブラーエは、コペンハーゲンの大学で古典的教養を身につけ、政治家をめざしましたが、1560年に予告された通り部分日食が始まったことに驚いて、天文学を志すようになりました。北ヨーロッパ各地を遍歴しながら、天体観測をするいっぽう、占星術にも関心を持つようになります。そのうち、当時用いられていた天文暦にずれがあることを発見したブラーエは、天体の動きを精密に観察する必要を感じはじめました。
1572年、カシオペヤ座の中に超新星を発見し、肉眼で確認できなくなるまでの14か月間観察を続けて記録を残しました。ブラーエの才能を認めたデンマーク王フレデリック2世は、スウェーデンとの海峡内にあるベーン島にウラニボリ天文台とステルネボリ天文台を建設してくれ、ブラーエはたくさんの観測器械を使用して、大量かつ精密な観測記録を残しました。この記録は、望遠鏡が使用される以前の天体観測としては、最高の精度を誇るものでした。
ブラーエは、1577年に出現したすい星についても多くの観測結果を残し、その現象が月よりも遠方で起きていることを証明します。このすい星の観測結果と、さきの新星の発見は、月より遠方ではいかなる変化も起きないと考える旧来のアリストテレス的天動説をくつがえす重要な証拠ともなりました。ただしブラーエ自身は、地動説には否定的な立場をとり、「太陽は地球の周りを公転し、その太陽の周りを惑星が公転している」という「修正天動説」を提唱しています。
1588年フレデリック2世が亡くなり、若い王が先王ほど天体観測に支援をしなくなったため、ブラーエはベーン島を離れ、1599年に神聖ローマ帝国ルドルフ2世の皇帝付数学官に迎えられ、プラハに移住、助手のひとりだった ケプラー を見出します。そして1601年に死去する直前、ケプラーに譲り渡した膨大な観測記録は、やがて「ケプラーの法則」発見へとつながります。「歴史に名を残したい」というブラーエの願いは、弟子の手で天文学史に名を残すことができたのでした。
「12月14日にあった主なできごと」
1702年 赤穂浪士の討ち入り…赤穂藩(兵庫県)の藩主だった浅野長矩(ながのり)が、江戸城の松の廊下で、吉良義央(よしなか)に侮辱を受けたために斬りかかった前年3月の事件で、浅野は切腹、藩はとりつぶしになったのに対し、吉良には何のとがめもありませんでした。この日の深夜、浅野の元家臣だった 大石良雄 ら赤穂浪士46名は、吉良邸に討ち入り、主君のあだを討ちました。浪士たちは翌年2月切腹を命じられましたが、人びとは浪士たちの行動に拍手かっさいし、『忠臣蔵』として今も芝居やドラマになって、語り継がれています。
1799年 ワシントン死去…イギリスからの独立戦争で総司令官として活躍し、アメリカ合衆国初代大統領となった ワシントン が亡くなりました。
2003年 フセイン大統領の身柄確保…アメリカ軍は、イラク戦争で民家に隠れていたイラクの元大統領サダム・フセインの身柄を確保しました。裁判の結果死刑が確定し、3年後の12月30日に亡くなりました。