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「寂光院」 と建礼門院

今日12月13日は、平清盛の次女で、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇の生母である平徳子(たいらの とくこ)─院号・建礼門院(けんれいもんいん)が、「壇ノ浦の戦い」で入水するも助け出され、京都・大原の寂光院(じゃっこういん)で、1214年に亡くなった日です。

1155年、平清盛 と時子の間に生まれた徳子は、16歳で、後白河法皇の養女となって宮中に入り、1172年に高倉天皇の中宮(皇后)となりました。この結婚は、平家一門の権勢を伸ばすための政略的なもので、徳子の使命は「天皇の子を生む」ことでした。しかし、なかなか子宝にめぐまれません。ようやく、1178年に安徳天皇がうまれると、1181年に国母(こくぼ)とされ、院号の「建礼門院」をたまわりました。しかしまもなく、高倉天皇と実父清盛の死により、平氏の力はいっきに衰えをみせはじめ、後白河院政が復活して、政治の実権を握りました。

いっぽう1183年5月、平氏の北陸追討軍が源氏の木曾義仲に敗れ、延暦寺が義仲軍についたことで京都の防衛を断念した平宗盛は、安徳天皇、徳子ら一族を引き連れて西国におもむきました。そして、源平合戦の最後の決戦となった1185年3月の「壇ノ浦の戦い」に平家は敗れ、平氏一門は滅亡します。この戦いで徳子は、安徳天皇らとともに海中に身を投げました。しかし、徳子だけは源氏の軍兵に助け出されて京都へもどりました。

出家した徳子は、「建礼門院」として大原・寂光院で、安徳天皇と平家一門の菩提を弔いながら余生を送りました。『平家物語』の最終章には、1186年に、後白河法皇がお忍びで建礼門院を訪ねたことが記され「このような粗末な姿は、世捨て人の習い。こんな姿で法皇にお目にかかるのは恥ずかしく、できることなら消え失せてしまいたい」(要旨)と記されています。

なお寂光院は、建礼門院と『平家物語』ゆかりの寺としてよく知られていますが、本尊の「木造地蔵菩薩立像」は、2000年に起きた火災で損傷しました。しかし、像内の納入品は無事で再興され、いまも重要文化財に継続指定されています。


「12月13日にあった主なできごと」

1797年 ハイネ誕生…『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表し「愛と革命の詩人」といわれたドイツの文学者 ハイネ が生まれました。

1901年 中江兆民死去…フランス革命の精神的導きをしたことで名高いルソーらに学び、自由民権思想を広めた明治期の思想家 中江兆民 が亡くなりました。

1937年 南京大虐殺…同年7月、北京郊外の盧溝橋近くで日中両軍が衝突(盧溝橋事件)して全面戦争になっていましたが、日本軍は当時の中国の首都南京を占領し、軍人ばかりでなく、女性や子どもを含むたくさんの市民を殺しました。この日の犠牲者は、中国側の発表では30数万人、日本の研究でも3万人以上とされていますが、いまだに真相はわかっていません。

投稿日:2011年12月13日(火) 06:38

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)