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「日本赤十字社」 と佐野常民

今日12月7日は、明治期の元老院議長で、日本赤十字社の創始者となった佐野常民(さの つねたみ)が、1902年に亡くなった日です。

1823年、佐賀藩士下村家の子として現在の佐賀市に生まれた常民は、のちに藩医佐野家の養子となり、藩校の弘道館などで漢学・儒学・医学を学びました。

当時佐賀藩は、オランダと中国とだけ交易を行う長崎の警備を命じられていました。若き藩主鍋島直正は、佐賀城下に反射炉を築き、日本初の鉄製大砲の鋳造を成功させ、長崎に砲台の築造を行うなど、長崎警備の充実をはかっていました。さらに、教育や産業など諸方面の改革に着手しているところで、常民も、藩主から蘭学修業を命じられ、1848年には大坂の緒方洪庵の適塾で、大村益次郎ら明治維新で活躍する多くの人材と知りあいました。

1855年、幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、佐賀藩から常民ら48名が第1期生として参加し、航海・造船・砲術などの習得に励みました。常民は、この経験をもとに1858年には三重・津海軍所の創設に尽力、幕府から預かった軍艦観光丸の船将として優れた指導力を発揮したばかりでなく、初の国産蒸気船凌風丸も完成させ、この地に日本一の偉容を誇る佐賀藩海軍が誕生したのです。

1867年常民は、パリで開催される万国博覧会に佐賀藩団長として参加しました。このパリ万博には、江戸幕府のほか、佐賀藩と薩摩藩が出展、日本人が初めて参加した万国博覧会でした。欧米の先進性と博覧会の重要性を認識して帰国した常民は、明治維新後は、日本海軍の創設、イギリス式兵制の採用、洋式灯台建設の推進など、欧米諸国に肩を並べる国家づくりに乗り出しました。大蔵卿(大蔵大臣)、元老院(明治政府の立法機関)議長、農商務大臣などを務めました。

1877年に西南戦争が始まると、かつて適塾で学んだ人命尊重の精神、ヨーロッパで出会ったデュナンの赤十字の理念を思いだした常民は、救護組織の必要性を唱え、「博愛社設立請願書」を政府に提出します。しかし「敵の傷者も差別なく救う」という博愛社設立の趣旨は、当時の政府には受け入れられませんでした。常民は、政府軍の総指揮官有栖川宮(ありすがわのみや)親王に熊本まで出向いて直接嘆願、即日許可を受けることができました。まさに日本の赤十字事業の幕開けでした。1887年、博愛社は日本赤十字社に改称され、国際赤十字に加盟、常民は「日本赤十字社」の初代社長に就任しました。こうして日本赤十字社は、日清戦争の戦時救護など、さまざまな場で活躍を展開していくのです。

常民は、「日本美術協会」の設立に力を尽くして美術界の発展にも貢献し、1902年80歳で亡くなりました。


「12月7日にあった主なできごと」

1827年 西郷隆盛誕生…大久保利通、木戸孝允と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人西郷隆盛が生まれました。

1867年 日本初の紡績工場…薩摩藩は、イギリスのプラット社から3600錘もの紡績機械を購入し、技師をつきそわせてこの日その荷が長崎に到着。まもなく薩摩藩は、家内工業的な機織にかわる近代的な鹿児島紡績工場を操業させました。
 
1878年  与謝野晶子誕生…『みだれ髪』など明治から昭和にかけて活躍した歌人であり、詩人・作家・思想家としても大きな足跡を残した与謝野晶子が生まれました。

投稿日:2011年12月07日(水) 06:49

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)