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「ホンダ」 の本田宗一郎

今日11月17日は、本田技研工業(通称・ホンダ)を創業し、世界的な企業にした実業家・技術者の本田宗一郎(ほんだ そういちろう)が、1906年に生まれた日です。

現在の浜松市に鍛冶屋の長男として生まれた宗一郎は、15歳で高等小学校を卒業すると、東京・湯島の自動車修理工場「アート商会」へ丁稚奉公に入りました。最初は子守りと掃除ばかりでしたが、毎日自動車をながめ、兄弟子たちの仕事を必死に観察、1年後にスパナを握らせてもらえるようになると、朝早くから夜遅くまで無我夢中になって技術を吸収しました。

そんな仕事ぶりが実って6年後、1928年に浜松市に「アート商会」からノレン分けを受けて独立。当時の自動車は輸入車ばかりで、一度故障すると海外から部品を取り寄せねばならないという状況下に、自分で部品を設計して器用に作り上げ、どんな故障でもすばやく直す会社は、大繁盛しました。

しかし、修理の限界を知った宗一郎は、何かオリジナルのものをつくりたいと、自動車の重要部品のひとつであるピストンリング製造へ転換したところ、大苦戦を強いられました。技術だけでは通用しないことを知り、1937年浜松高等工業学校(現の静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、3年間金属工学の研究に没頭しました。さらに大学、研究所を数年間渡り歩いて研究を続け、その間に特許を28件もとって、ピストンリングの大量生産をはたしました。

1945年に太平洋戦争が終わると、自身が経営していた会社の全株をトヨタ自動織機に売却して、「人間休業」と称して1年間の休養後、技術研究所をおこし、1948年9月、本田技研工業を従業員20人でスタートさせました。自転車にとりつける補助エンジンを製造する小さな町工場でしたが、物資のない時代に一種のモーターバイクとなる「バタバタ」は、とてもよく売れました。

まもなく、のちに副社長となる藤沢武夫と出会って会社の財務をまかせると、宗一郎はオートバイ製造に専念し、1949年に本格的オートバイ「ドリーム号」の生産・販売を開始するや、オートバイの一大ブームを引きおこして急成長しました。特に1958年に発売したスーパーカブは、生産台数2000万台以上というロングセラー商品となっています。1959年からはオートバイの国際レースにも参加、1961年のマン島TTレースでは125cc、250ccとも1位から5位まで独占という完全優勝をはたしました。

1963年には4輪車製造に進出、1964年からはF1レースに参加するなど、「ホンダ」を世界の大企業にのしあげました。そして1973年、「会社は一族のものではない」と社長を引退、片腕となっていた藤沢も退いて、そのさわやかな引退ぶりは世間の脚光を浴びました。その後も1991年に亡くなるまで、あくまで技術者に徹し、1989年には日本人としてはじめて、アメリカの「自動車殿堂」入りを果たしています。


「11月17日にあった主なできごと」

1869年 スエズ運河開通…フランスの建設者 レセップス は、さまざまな苦難の末に、地中海と紅海を結びインド洋へとつながる海の交通の要・スエズ運河を10年がかりで建設し、開通させました。運輸労力と費用の軽減は驚くほどで、政治的・軍事的重要性のために各国の争奪戦となり、当初フランスが中心だった同運河は、1875年からイギリスが支配し、1956年にエジプトが国有化しました。

1922年 アインシュタイン来日…相対性理論で名高いドイツの物理学者 アインシュタイン が来日し、約1か月間の滞在中、東京、大阪、仙台、福岡などで講演を行いました。ノーベル賞を受賞したばかりの時で、会場はどこも学者や学生を中心に満席でした。

投稿日:2011年11月17日(木) 06:42

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)