今日10月24日は、江戸時代前期の数学者で、「和算」とよばれる数学の理論を世界的なレベルまで発展させた関孝和(せき たかかず/こうわ)が、1708年に亡くなった日です。
1640年前後に、幕府の旗本の子に生まれたといわれる関孝和ですが、その生いたちや、数学の基礎をいつ、どこで、どんな師について学んだのか、ほとんどわかっていません。関家が、孝和の次の代で断絶したため、何の資料も残っていないためです。ただ、6歳のころ、おとなたちがそろばんをしているのを見て、孝和がいったという話があります。
「あの人のやりかたは、ここがまちがってる。こっちの人のやりかたは、ひとけた目がちがっている」「な、なんだって?」「なるほど、坊やのいうとおりだ!」──この話が事実かどうかは別にして、孝和が幼い時から、計算にすぐれていたことはたしかなようです。吉田光由という人が書いた『塵劫記』という数学の本を読んで、目を開いたともいわれています。やがて孝和は、甲府の藩主の徳川綱重とその子綱豊に仕えました。そして、綱豊が5代将軍綱吉の養子になって江戸城に入ると、孝和もまた幕府の役人になりました。
当時の日本の数学は、中国から伝わった天元術というやり方でした。算木という細長い板を使って計算をしていましたが、算木は場所をとって不便です。孝和は、工夫に工夫を重ね、新しい方法をあみだしました。それは、いろいろな記号をこしらえ、横やたての線を組みあわせて紙の上で計算する方法でした。この方法を深めて到達したのが行列式で、西洋の数学よりも70年も先立っていたといわれます。
また孝和は、円周率を小数点以下10位まで正しく計算して、円周の長さ、円の面積を求める研究などもしました。その研究は、西洋の数学者のだれにも負けないものです。方程式の研究についても、孝和のレベルは高く、中国数学からヒントを得て、近似法という研究では、孝和と同時代に生きた大数学者ニュートンとほぼ同じレベルまで到達したといわれます。
孝和は、日本の数学を中国の数学からぬけださせ、和算の大きな発展への道をひらくとともに、荒木村英、建部賢弘(かたひろ)らのすぐれた弟子を育てたことでも知られています。天文学や暦学にもすぐれた業績をのこし「算聖」とあがめられ、1708年、主君綱豊が6代将軍家宣となる前年に亡くなりました。
ところが、日本人がなしとげたもっとも独創的な業績だった和算も、明治5年の学制改革により数学にとって代わられ、学校では教えないことになりました。しかし孝和は、日本数学史上最高レベルの人物とされています。
「10月24日にあった主なできごと」
1929年 暗黒の木曜日…アメリカのニューヨークにある株式市場で、株が史上最大の暴落をしました。その日が木曜日だったため「暗黒の木曜日」といわれています。5日後にもまた値下がりが続き、わずか2週間ほどで株価が半分以下となって、アメリカ経済は大混乱となりました。多くの人が財産を失い、失業者があふれ、自殺者もでる騒ぎになりました。こうしてアメリカではじまった大恐慌は、全世界をまきこむ「世界恐慌」へつながっていきました。