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庶民に愛された浅沼稲次郎

今日10月12日は、昭和の社会運動家・政治家で「日本社会党」の委員長だった浅沼稲次郎が、1960年に、演説会の席上で17歳の右翼少年に暗殺された日です。巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から「人間機関車」の異名を取り、「ヌマさん」の愛称で親しまれた希有な政治家でした。

1898年に三宅島の名主の庶子として生まれた浅沼は、父が現在の江東区で酪農業をはじめて再婚したのを期に、実子として認知されますが、医者になるよう勧める父の反対を押し切り、1918年に早稲田大学予科に入学しました。

友人と文具商をはじめて自活するいっぽう、大学でマルクス主義の講義を受けて思想的に開眼し、民主主義をめざす学生団体を組織しました。そして同志たちと小作争議や労働争議を応援するようになったほか、大学が軍事教育を採り入れようとすると、先頭にたって反対運動をおこしました。1923年に早大政経学部卒業後も、社会主義運動を続け、1925年に男子普通選挙法が定められると、農民や労働者の利益をはかる農民労働党の書記長に就任しました。しかし、この党はわずか3時間で政府の命令で解散させられましたが、以後労働農民党、日本労農党、社会大衆党などに参加し、全国の農民運動を支援しました。

やがて政治家として生きる決意を固めた浅沼は、1933年に東京市会議員に、1936年には衆議院選挙に初当選。以後9回も当選をはたしましたが、精神の変調をきたすようになって、1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)の立候補を辞退したため、戦後の公職追放をまぬがれたのは幸運でした。

1945年の敗戦後、日本社会党の結成に際し組織部長に就任、しだいに党の中心人物となっていき、1948年には書記長になりました。1951年、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約ともに反対の「左派」と、賛成の「右派」が対立すると、浅沼は講和条約賛成・安保条約反対の折衷案で、党内の対立をまとめようとしました。しかし、左右の分裂を食い止めることができず、その後、「右派社会党」書記長となった浅沼は、寝る間を惜しんで全国の同志たちの応援に駆け回り、そのバイタリティから「人間機関車」の異名がつけられました。

1955年に、社会党再統一が実現すると、再び書記長に就任。党内で対立があると、調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれました。

1960年、西尾末広らが社会党を離党して「民主社会党」(民社党)を結成すると、浅沼が後任の委員長に選ばれました。浅沼は安保闘争を前面にたって戦い、岸信介内閣を総辞職に追いこみ、条約廃案を勝ち取ることはできなかったものの、安保闘争最高の立役者としての名声をほしいままにしました。そして、総選挙の前哨戦として、この日、日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した浅沼は、演説中に突然壇上に上がって来た17歳の右翼少年に腹部を刺され、61年の波乱の生涯を終えたのでした。


「10月12日にあった主なできごと」

1492年 コロンブスのアメリカ発見…スペイン女王イサベラの援助により、西回りでインドをめざした コロンブス 隊が、71日目のこの日、中央アメリカのバハマ諸島にある島(今のサンサルバトル島)に到着しました。

1694年 芭蕉死去…各地を旅しながら紀行文『野ざらし紀行』『笈(おい)の小文』『おくのほそ道』などを遺し、「俳句」を文学の域に高めた 松尾芭蕉 が亡くなりました。

1769年 青木昆陽死去…江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者 青木昆陽 が亡くなりました。

投稿日:2011年10月12日(水) 07:30

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)