今日9月8日は、明治・大正・昭和初期に活躍した化学者の池田菊苗(いけだ きくなえ)が、1936年に亡くなった日です。
菊苗は1864年、薩摩藩士の子として京都屋敷で生まれました。明治維新後に父は、滋賀県の役人となって、旧薩摩屋敷を所有するなど裕福でしたが、琵琶湖に汽船を浮かべて観光業をしたり、牧畜業にたずさわったりしましたが、しょせんは武士の商法で、どれも失敗に終わってしまいます。そんな中で菊苗は、東京、京都、大阪などで学ぶうち、大阪衛生試験所長と知り合う機会に恵まれ、化学実験を行ううち、すっかり化学のとりこになってしまいました。
すでに家業は傾きかけていたため、菊苗は寝具を売って旅費を工面して上京、1881年に大学予備門の試験に合格、1885年には東大の化学科の給費学生となりました。卒業後は大学院へ進学し、1891年高等師範学校の教授、1896年には、東大化学科の助教授となりました。1899年には、ドイツ・ライプツィヒ大学に2年間留学し、物理化学界の世界的権威であるオストワルド研究室で学びました。帰国後、東大教授に昇進し、物理化学の新知識の教育、研究に没頭しました。
そして1907年、菊苗の名を決定づける研究にとりかかりました。コンブのうま味の研究で、コンブを煮つめ、これを分離する実験をくりかえし、コンブのうまみの成分がグルタミン酸塩であることを発見しました。翌1908年にグルタミン酸塩を主成分とする調味料の製造方法を発明しました。そのころ、海草からヨードを製造する事業を行っていた鈴木三郎助の協力を得て、特許権を共有し、研究は菊苗が、事業は鈴木が行うことに決めました。こうして1909年5月、うまみ調味料「味の素」が、鈴木製薬所(現・味の素株式会社)から発売されたのです。
1917年には、理化学研究所の創立に参加、1923年には東大を定年1年前に退職して、亡くなるまで自宅の実験室で研究を続けました。
「9月8日にあった主なできごと」
1841年 ドボルザーク誕生…「スラブ舞曲」や「新世界より」などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠 ドボルザーク が生まれました。
1868年 元号「明治」…年号をこれまでの「慶応」(4年)から「明治」(元年)と改めました。同時に、今後は1天皇は1年号とする「一世一元の制」を定めました。
1951年 サンフランシスコ講和条約締結…第2次世界大戦で、無条件降伏をして連合国の占領下におかれていた日本国民は、1日も早い独立を願っていました。1950年に朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本を独立させて資本主義の仲間入りをさせようと、対日講和の早期実現を決意しました。そしてこの日、日本の全権大使 吉田茂 首相は、サンフランシスコで戦争に関連した48か国と講和条約に調印し、6年8か月にわたる占領が終わり、独立を回復しました。しかしこの時、アメリカとの間に「安全保障条約」を結んだことで、日本国内に700か所以上もの米軍基地がおかれるなど、本当の意味での独立国にはなりきれず、さまざまな波紋を残すことになります。
1981年 湯川秀樹死去…「中間子」という電子のほぼ300倍もの質量をもつ素粒子のあることを、理論をもって証明したことで、1949年日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した 湯川秀樹が 亡くなりました。