児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  ナチスに反対し祖国を去ったトーマス・マン

ナチスに反対し祖国を去ったトーマス・マン

今日8月12日は、『ブッデンブローク家の人々』『トーニオ・クレーガー』『ベェニスに死す』『魔の山』などの名作を著わしたドイツの小説家トーマス・マンが、1955年に亡くなった日です。

1875年に、中世にハンザ同盟に属していた北ドイツの商業都市リューベックの富裕な商家に生まれたパウル・トーマス・マンは、めぐまれた少年時代を過ごしました。

ところが1891年、マンが16歳のとき父が死去して、100年も続いたマン商会は破産、一家はミュンヘンに移り住むことになりました。高等学校を中退したマンは、1893年から保険会社の見習いとして働きはじめ、そのかたわら小説を書きはじめました。処女作品となる短編小説『転落』がライプツィヒの文芸雑誌に掲載されると、マンは文筆で生計を立てる決意をし、保険会社を辞めてミュンヘン工科大学の聴講をしながら作品の執筆をつづけました。

その頃からにショーペンハウアー、ニーチェの哲学に興味を持ち、その影響を受けた一連の短編作品を発表します。しかし、マンの名を一気に世界的なものにしたのは、11部からなる長編『ブッデンブローク家の人々』でした。一家の歴史を題材にした小説を書くことを思い立ったマンは、多くの親戚を訪れて証言を取り、2年半の執筆期間を経て1901年5月に完成させました。そして、翌年に出版されると広く読者を集め、世界中で大評判となったのです。

経済的にも安定したマンは、市民生活と芸術との相克をテーマにした短編『トーニオ・クレーガー』、親交をもった作曲家マーラーの死に触発されて書いた中編『ベェニスに死す』、教養小説の傑作『魔の山』などを発表し、1929年にはノーベル文学賞を受賞しました。

1933年にヒトラーが政権をとると、ナチスの独裁に反対して亡命、スイスやアメリカで生活しながら、聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』や『ファウスト博士』を発表。終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごしましたが、『ドイツとドイツ人』などの一連のエッセイや講演を通じて、ドイツの文化に対する自問を続けました。

マンは、日本の作家にも、大きな影響を与えました。ドナルド・キーンによると、三島由紀夫は、代表作『金閣寺』の文体は「鴎外プラス トーマス・マン」だと述べたといい、『暁の寺』にも『魔の山』からの文体的影響を指摘しています。北杜夫や辻邦生は、学生時代からマンの作品に親しんでおり、北のデビュー作『幽霊』は『トーニオ・クレーガー』から、代表作『楡家の人々』は『ブッデンブローク家の人々』から強い影響を受けているといっています。辻はパリでの留学期に『ブッデンブローク家の人々』を精読して、文章ごとにカードを作って作品の構成や手法を、徹底的に研究したといわれています。


「8月12日にあった主なできごと」

1643年 俵屋宗達死去…江戸時代の日本画の最高けっ作といわれる『風神雷神図』 などを描いた江戸時代初期の画家 俵屋宗達 が亡くなりました。

1893年 「君が代」「日の丸」制定…「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。太平洋戦争後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 太平洋単独横断…堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の太平洋横断に成功しました。

1985年 日航ジャンボ機墜落…日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。「上を向いて歩こう」を歌い世界的ヒットをさせた歌手坂本九もこの犠牲者の一人。

 

投稿日:2011年08月12日(金) 09:30

 <  前の記事 協調外交の幣原喜重郎  |  トップページ  |  次の記事 初の庶民学校を開いた熊沢蕃山  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2486

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)