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女子教育の先覚者・下田歌子

今日8月8日は、明治から大正にかけ、女性に教養を授け品性を磨かせ、女性の地位向上・生活改善をはかるために奮闘した教育家・歌人の下田歌子(しもだ うたこ)が、1854年に生まれた日です。

岩村藩(現・岐阜県恵那市)の藩士の家に生まれた歌子(本名・平尾鉐[せき])は、祖母から読み書きを、父から中国古典を学び、5歳で俳句や和歌や漢詩を作ったり、絵にも才能を発揮するなど「神童」と呼ばれました。

明治維新後、父は、新政府に招かれて東京に出たため、鉐もその後を追って上京、1872年には女官に抜てきされて宮中に出仕しました。武家の子として身に付けた礼儀作法や、儒学者だった祖父仕込みの学識、和歌の才能を認められて皇太后から「歌子」の名を与えられ、宮廷で和歌を教えるようになりました。

1879年に剣客だった下田猛雄と結婚、宮中出仕を辞します。3年後に夫が病に臥すと看病のかたわら、自宅で『桃夭(とうよう)女塾』を開講しました。当時の政府高官のほとんどは、かつて勤王の志士で、妻たちの多くは芸妓や酌婦でした。正当な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教えたわけです。

1884年夫が病死すると、塾での教育が評価され、再び宮内省にもどって創設されたばかりの「華族女学校」(のちの学習院女子部)の教授に迎えられます。翌年には学監に就任。華族の子女のみが学ぶこの学校では、古式ゆたかな儒教的教育をほどこしました。

1893年、女子教育の視察のため2年間、イギリス、フランス、ドイツを旅行したことが、歌子のその後を決定づけます。特にイギリスで、王室の子息らも一般校で学んでいること、貴族階級の女性が運動で身体を鍛えていること、女子と男子とが同じ教育を受けていることなどに大きなショックを受けました。帰国後、歌子は「帝国婦人協会」を設立しました。当時庶民の女性があまりにも男性のいうがままになっている姿に心を痛め、「日本が一流大国と肩を並べるには、女子大衆教育こそが必要」と、これまでの上流階級の女子教育から、一般女子教育の普及をめざすものにしました。そして、付属機関として「実践女学校」と「女子工芸学校」(のちの実践女子学園や順心女子学園)を創立させて、その校長となりました。

1906年、華族女学校は学習院に統合され、陸軍の乃木希典将軍が院長に就任しました。すると、歌子は、軍人である乃木と教育方針をめぐって対立したそうです。そして、1936年に82歳で亡くなるまで、生涯を、広く女子教育の振興にささげたのでした。


「8月8日にあった主なできごと」

1506年 雪舟死去…日本水墨画の大成者として知られる室町時代の画僧 雪舟 が亡くなりました。

1962年 柳田国男死去… 『遠野物語』『雪国の春』『海南小記』などを著し、日本民俗学を樹立した 柳田国男 が亡くなりました。

1973年 金大中事件…韓国の政治家で、後に第15代韓国大統領となる金大中が、宿泊している東京のホテルから拉致される事件がおこりました。5日後、ソウル市内の自宅前で発見されました。

投稿日:2011年08月08日(月) 05:12

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)