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制約の中で名曲を連発したショスタコビッチ

今日8月9日は、旧ソ連時代を代表する作曲家ショスタコビッチが、1975年に亡くなった日です。

ペテルブルク(現・サクトペテルブルク)に1906年、鉱山技師の子として生まれたドミートリイ・ショスタコビッチは、9歳のころにピアノ奏者の母からピアノの手ほどきを受け、10歳には作曲をするようになり、1919年ソビエト政権成立の年に、13歳でペテルブルク音楽院に入学をはたします。

専攻は作曲とピアノで、グラズノフらに師事して在学中から俊才ぶりを発揮しました。1925年に卒業作品として作曲した交響曲第1番は、翌年に初演されると世界の注目を集め、大指揮者トスカニーニやバルターらにとりあげられて、[モーツァルトの再来] とまでいわれて、世界中から注目を集めました。1920年代後半から1930年代前半にかけては、西ヨーロッパの革新的な音楽技法を吸収し、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲し、ジャズ、オペラ、バレエにと大活躍をしました。

ところが共産党機関紙『プラウダ』に、1936年に発表した歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とバレエ『明るい小川』が、ブルジョア的形式主義の音楽という批判を受け、ショスタコビッチは自己批判を余儀なくされてしまいます。そのため、オーケストラでリハーサルまでしていた交響曲第4番の初演を撤回。批判以後に改めて作曲された 交響曲第5番 は、これまでの作風から一転させて、政府が求める社会主義的路線に沿ったものでした。プラウダ紙は一転して、「哲学的内容のある、雄大崇高な作品」と絶賛しました。

1930年代後半から1940年代前半にかけては、さらなる制約を受けながらも、スターリン賞を受賞したピアノ五重奏曲、友人の突然の死をいたんだピアノ三重奏曲第2番、交響曲第7番「レニングラード」などの名曲を発表します。

1948年、ソ連の作曲家のほとんどが「形式主義者」として共産党から批判されると、ショスタコビッチは、オラトリオ『森の歌』や映画音楽『ベルリン陥落』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、共産党賛美の作品を多数作って、名誉回復を勝ちとりました。

1953年にスターリンが死ぬと、交響曲(第10番)を、8年ぶりに発表。1950年代後半から晩年にかけては、交響曲、協奏曲、室内楽曲、さらには声楽曲で傑作をたくさん残し、死の直前まで意欲的に作曲を続けました。


「8月9日にあった主なできごと」

1192年 源実朝誕生…鎌倉幕府第3代将軍で、歌人としても著名な 源実朝 が生まれました。

1945年 長崎へ原爆投下…8月6日の広島に続き、長崎に原爆が投下されました。広島の原爆はウラン爆弾だったのに対し、プルトニウム爆弾という広島より強力なものでした。しかし平地の広島に比べて長崎の地形が複雑なため、被害は浦上地区に集中しました。それでもこの原爆で数か月以内に7万人が亡くなり、その後に亡くなった人を入れると、15万人ほどの人が命を落としました。

投稿日:2011年08月09日(火) 06:35

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)