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「江戸城」 と太田道灌

今日7月26日は、室町時代中期の武将で、江戸城を築城した太田道灌(おおた どうかん)が、1486年に亡くなった日です。

1432年、関東管領上杉氏の一族である扇谷(おおぎがやつ)上杉家の重臣で、太田資清(すけきよ)の子として鎌倉で生まれた道灌は、幼少から抜群の才能を示し、9歳から11歳まで建長寺で学問を修め、足利学校で学び、22歳で従五位上、24歳で家督を継いで、父に代わって扇谷上杉家の執事となりました。

当時関東は、関東公方(くぼう)・足利成氏(なるしげ)と、関東管領上杉氏の対立がはげしい上、上杉氏もまた山内上杉家、犬懸上杉家、宅間上杉家、扇谷上杉家に分かれて対立するなど争いがたえませんでした。やがて犬懸家が没落した後は山内上杉家が関東管領職を独占、道灌の主君扇谷上杉家は、山内上杉家を支える分家的な存在となっていました。

1455年、足利成氏が、古河城を本拠に上杉氏に反感を抱く関東諸将の支持を集めたことで、関東は利根川を境界線として、関東公方足利成氏の東側と、関東管領上杉氏の西側でにらみあいとなります。

上杉方は、深谷、川越の館を城郭に修築する一方、もうひとつ新城をつくることになりました。こうして太田道灌は、1456年に江戸城を築くことを計画、翌年にかけ完成させました。道灌のこしらえた城は、徳川氏の江戸城の本丸と二の丸のある地で、子城(ねじろ)、中城、外城(とじろ)の3つあり、それぞれの間に堀をめぐらしました。

こうして新城はできましたが、両者の対立はますます激しくなり、道灌は30回以上も出陣しましたがなかなか決着がつきません。そのうち、道灌に補佐されて扇谷上杉の勢力が強まると、山内上杉家の当主定正は、これを恨むようになりました。そして、相模の国糟谷(現・伊勢原市)の屋敷に道灌を招いて、浴室で暗殺しました。

「江戸城」は、関東に進出してきた北条早雲の孫・氏康に、1524年扇谷上杉家は滅ぼされて後北条氏の手にわたり、それからおよそ70年後、豊臣秀吉の命令で後北条氏攻めの先鋒を引き受けた徳川家康に引き継がれたのでした。


「7月26日にあった主なできごと」

1881年 小山内薫誕生…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の 小山内薫 が生まれました。

1945年 ポツダム宣言の発表…アメリカ、イギリス、ソ連(現ロシア)3国首脳の名で、日本に無条件降伏をせまる「ポツダム宣言」を発表しましたが、日本はこれを無視しました。しかし、8月に入って広島と長崎に原爆を投下され、日本と不可侵条約を結んでいたソ連の参戦などの情勢の変化により、8月14日の御前会議で受諾を決めて終戦にむかいました。発表から受諾までの20日間で、およそ38万人もの人が亡くなったといわれています。

1956年 スエズ運河国有化宣言…エジプトにあるスエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ国際的な水路です。開通した1869年から100年近くものあいだ、通行料はフランスやイギリスが株を占める万国スエズ運河会社に入り、エジプトには何の利益も受けられませんでした。エジプトの ナセル 大統領はこの日、スエズ運河国有化を世界に宣言しました。これを不服としたフランスやイギリスは、国際連合に解決を求めましたが、その解決を待たずに両国は、10月にイスラエルと連合してエジプトに戦争をしかけました(スエズ動乱・中東動乱)。これに対して世界中から非難がまきおこり、連合軍は11月に撤退。翌年4月にエジプト国有になって、スエズ運河は再開されました。

投稿日:2011年07月26日(火) 07:25

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)