今日7月14日は、明治後期から昭和期の洋画家で、『放牧三馬』などの馬シリーズや「能面」の絵などで名高い坂本繁二郎(さかもと はんじろう)が、1969年に87歳で亡くなった日です。
1882年、福岡県久留米市に生まれた坂本は、幼いころから神童といわれるほど絵を描くのが上手で、10歳のころから、地元の画家で高等小学校の図画教師をしていた森三美(さんみ)に師事、同年生れで後に『海の幸』で有名になる青木繁とともに、およそ10年間、腕をきそいあいました。
1902年坂本は、東京の画塾に移ってぐんと腕をあげていた青木を頼って上京、画塾「不同舎」や太平洋画会研究所で修業をつづけ、1907年『北茂安村の一部』が第1回文展に入選しました。10年の第4回文展では『張りもの』が褒状、11年の第5回文展では『海岸』が3等賞、12年第6回文展『うすれ日』は、夏目漱石が朝日新聞で高く評価するなど、画家として順調な歩みをみせはじめます。ところが、坂本の描く絵には、フランスの印象派がめざした光と色彩の手法を取り入れた絵と、それを乗り越えた独自の絵との葛藤がありました。そして1920年、黒々とうずくまる『牛』を二科展に出品し、印象派が追放した暗さと構成に戻る決意を表現します。
坂本は、そんな方向性が正しいかを確かめたいと思い、1921年にフランスに渡りました。坂本が魅せられたのは、巨匠たちが描いた絵ではなく、その自然でした。その柔らかい色彩はより明るく、物の形を単純化させ、見る者の想像力へ訴える画法へと変わっていきました。この画法で肖像画にも挑み、1923年に描いた代表作『帽子を持てる女』は、優しく強く、存在感をしっかり持った女性の絵で、本場の画家たちからもかっさいを浴びました。
1924年に郷里に帰った坂本は、東洋的な美を追求する方向に間違いがないことをさとり、以後は亡くなるまで地元に落ち着きました。しばしば阿蘇や雲仙におもむいて、『放牧三馬』や『水より上がる馬』など、一連の馬シリーズを描いて、「馬の坂本」といわれたこともありました。また、能面を題材にした「能面」シリーズを描いたこともありましたが、その画風は、初期の頃の暗い色調から、微妙な色合いの幻想的なものになっていったといえそうです。
こうして経歴を記していくと、終始画壇で活躍してきたように思われますが、その画業が世間に知られるようになるのは、太平洋戦争後のことでした。画家仲間や、玄人筋からは哲人画家として尊敬を集めてはいましたが、一般的な名声ではありませんでした。今や、梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画界の巨匠と見なされるようになったのは、絵を見る大衆のレベルが、一段とあがってきたと見るべきなのでしょう。
「7月14日にあった主なできごと」
1789年 フランス革命…パリ市民が政治犯を収容するバスティーユ牢獄を襲撃し、世界史上に特筆される「フランス革命」のひぶたが落とされました。日本ではこの日を 「パリ祭」 と呼んでいますが、フランス国民は毎年、歌ったり踊ったり、心から喜びあう国民の祝日です。
1810年 緒方洪庵誕生…大阪に適塾を開き、福沢諭吉 や大村益次郎らを育てた蘭医・教育者として大きな功績を残した 緒方洪庵 が生まれました。