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推理小説の生みの親・ドイル

今日7月7日は、名探偵シャーロック・ホームズが活躍する推理小説シリーズや、チャレンジャー教授が活躍するSF小説シリーズ、歴史小説、戯曲など広い分野の作品を著わしたイギリスの作家ドイルが、1930年に亡くなった日です。

スコットランドの首都エディンバラで、1859年に生まれたアーサー・コナン・ドイルは、カトリック系のカレッジで学びましたがやがてキリスト教を拒否、17歳で外科医師の助手として働きながらエディンバラ大学で医学を学びました。在学中に父親がアルコール依存症により入院したため、およそ8か月間北氷洋行きの捕鯨船に船医として乗りこみ、一家の家計を支えました。

1881年に大学を卒業したドイルは、アフリカ航路の船医として働いたあと、ポーツマス市で町医者を開業しますが、あまり振るいません。患者がやって来るのを待つ間に一般的な小説を書いては出版社へ送りましたが、その度に返却されてしまいました。ある時、学生時代に親しんだエドガー・アラン・ポーの探偵小説を思い出し、これをヒントに『緋色(ひいろ)の研究』を書きました。これがシャーロック・ホームズと友人のワトソン博士が登場する初めての作品でした。1887年のクリスマスの日に発表された記念すべき第1作です。

ところが、発表後しばらくはあまり売れませんでした。1890年にアメリカの雑誌からの注文を受けて書いた第2作目『四つの署名』がリピンコット・マガジンに掲載されると、シャーロックホームズの人気は広がりをみせはじめ、1891年までに書きためた作品をまとめた『シャーロック・ホームズの冒険』が発売されるや爆発的な成功をおさめ、ドイルは世界の人気作家となったのです。

ドイルは亡くなるまでに、60編のホームズ作品を書いていますが、自身としては『失われた世界』や『毒ガス帯』など、チャレンジャー教授の活躍するSF物や、『白衣の騎士団』『勇将ジェラールの回想』など歴史小説のほうに価値を感じていたようです。

現実社会でもドイルは、いくつかの事件で、被疑者の無実を主張し、冤罪を晴らすために力を尽くしたばかりでなく、冤罪を防ぐために、刑事事件の控訴院を設立することにも尽力しました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、25点のドイル作品を翻訳で読むことができます。また、いずみ書房のホームページに公開されている「オンラインブック」の「レディバード100点セット」には、シャーロックホームズシリーズの1編『バスカビル家の犬』、チャレンジャー教授シリーズの『失われた世界』を抄訳版・参考訳で読むことができます。


「7月7日の行事」

今日7月7日は、「七夕」です。こんなロマンチックな中国の伝説が、もとになっています。

天の神様の娘の織女星(こと座のベガ)は、美しい織物を織る名手でした。とても仕事熱心なため、年頃になってもボーイフレンド一人作りません。かわいそうになった神様は、天の川のむこうに住む働き者の牽牛星(わし座のアルタイル)という若者と結婚させました。ところが、結婚すると二人は、あんまり毎日が楽しくて織女星は織物を織らなくなり、牽牛星も牛を追わなくなったのです。怒った神様は、天の川のこちらの岸に織女星を連れもどし、1年に一度の「七夕の夜」だけ向こう岸に行ってよいことにしたのです。7月7日の晩、空が晴れると、白鳥たちが天の川にたくさん舞い降りて、翼で橋を架けてくれます。織り姫はその白鳥たちの橋を渡って牽牛に会いに行くのです。

いっぽう日本には、「棚機つ女(たなばたつめ)」という民間信仰がありました。少女はこの日に、身を清めて衣を織り、機織り機の棚の上に置いて、神様をお迎えし、穢れを取り去ってもらうというもので、この伝統と中国の伝説がいっしょになって、7世紀の頃から宮中の行事になり、江戸時代の末期になって、一般の人たちもこの行事をはじめるようになったといわれています。


「7月7日にあった主なできごと」

1615年 武家諸法度発布…5月に大坂夏の陣で、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、2代将軍の徳川秀忠の名で全国諸大名に「武家諸法度」13か条を発布しました。自分の領地と江戸とを1年ごとに毎年4月に参勤することを指示した参勤交代制、築城の厳禁、幕府による大名やその側近の結婚許可制などの統制令でした。

1622年 支倉常長死去…江戸時代初期の仙台藩主伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ渡航した支倉常長が亡くなりました。

1937年 盧溝橋事件…北京に近い盧溝橋で、中国・国民党政府軍と日本軍との間に発砲事件がおこりました。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となったこの事件をきっかけに、日本軍と中国は戦争状態に突入し、戦線を拡大していきました。

投稿日:2011年07月07日(木) 06:55

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)