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マルチ芸術家・コクトー

今日7月5日は、フランスの詩人コクトーが、1889年に生まれた日です。20世紀初めから2度の大戦を経て1963年に亡くなるまで、約半世紀にわたって第一線で活動を続けた詩人であり、小説、評論、演劇、絵画、映画、音楽などあらゆる文学・芸術分野で活躍したマルチ芸術家でした。

パリ近郊の豊かな家庭に生まれ育ったジャン・コクトーは、中学時代から詩を書くようになりました。1909年に、処女詩集『アラジンのランプ』を出版して文壇にデビューするや、翌年、1912年と立て続けに詩集を連発して、一躍パリの有名人となりました。作家のアンドレ・ジードやプルースト、モジリアニやアンリ・ルソーらモンパルナスの画家、ピカソやブラックら前衛画家、音楽家など、さまざまなジャンルの芸術家たちと親しく交わり、鋭い感受性を発揮して、新しい試みによる表現に挑戦するようになります。

第1次世界大戦がはじまった1914年には、志願して北部戦線で負傷した人たちの救出する部隊に加わったり、アルジェリア歩兵部隊、海軍陸戦隊に所属するなど、危険とヒロイズムを体験しました。まもなく前線を去ったコクトーは、1917年には、ピカソや作曲家サティと組んで書き下ろしの新作バレエ『パラード』を初演して劇壇にデビュー、翌年には、後に六人組と呼ばれる作曲家を集めたコンサートや、ジャズ演奏会なども開いています。

1919年に発表した、小説『ポトマック』で脚光を浴び、早熟の天才といわれた作家ラディゲを見出して仕事を共にするようになりますが、ラディゲが1923年に病死すると、その悲しみをまぎらすために、10年近くもアヘンを常用するようになりました。そして、アヘン中毒治療中の1929年に、代表作となる小説『恐るべき子どもたち』を著しました。この小説は、戯曲にもなり、連続450回という長期興業の記録を打ち立てました。劇作家としても大活躍をし、『オルフェ』他たくさんの戯曲を発表。最大の成功は『人間の声』だといわれています。登場人物は、男に捨てられようとしているひとりの女性だけ、全て電話によって相手の男に語られる内容ですが、その新鮮な舞台効果は大好評でした。

1936年には、初めての世界一周旅行の途中に日本へ立ち寄り、歌舞伎と大相撲を観戦、その印象や日本観を、NHKラジオで語りました。相撲を「バランスの芸術」と呼び、この時観た歌舞伎の『鏡獅子』のメイクは、のちの映画監督作品『美女と野獣』に活かされているそうです。

コクトーは、『喜望峰』(1919年)『平調曲』(1923年)など20冊以上の詩集を遺していますが、その特徴は、刊行するごとに大きな変貌をとげていることです。「一作ごとに私は、わざと前の作に背をむけて、反対方向に新しい歩みをする」という創作態度を実行したためで、コクトーほどさまざまな姿を読者に示した詩人はいません。堀口大学の訳詩による「わたしの耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ」は、日本人に特に親しまれています。

なお、コクトーは晩年には映画監督作品に意欲をみせ、先の『美女と野獣』のほか『双頭の鷲』や、コクトー最後の自作映画『オルフェの遺言』では、ピカソが友情出演をしています。


「7月5日にあった主なできごと」

1215年 栄西死去…鎌倉時代の初期、禅宗の日本臨済宗をひらいた僧・栄西が亡くなりました。栄西は、茶の習慣を日本に伝え、茶の湯のもとをきずいたことでも知られています。

1590年 秀吉天下統一…豊臣秀吉は、小田原城を包囲して北条氏政・氏直父子を降伏させ、最後まで抵抗していた戦国大名をしたがわせて、応仁の乱から120年近く続いた「戦国時代」を終わらせました。

1949年 下山事件…日本国有鉄道(JRの前身─国鉄)の下山総裁が出勤途中に失踪。翌日の未明に、常磐線の北千住駅と綾瀬駅間の線路上で、死体となって発見されました。真相不明のため捜査が打ち切られたため、「戦後史最大の謎」とされています。

投稿日:2011年07月05日(火) 06:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)