今日7月4日は、平安時代後期の武将で、八幡太郎(はちまんたろう)の通称で知られる源義家(みなもとのよしいえ)が、1106年に亡くなった日です。
はじめての武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏らの祖先に当たることから、後世に英雄視され、さまざまなエピソードが残されています。
(源義家が、東北へ兵をだしたときのこと。兵をしたがえて馬を進めていた義家は、さっと矢をつがえて、弓をきりきりっとしぼりました。草原の上を並んで飛んでいたガンの群れが、とつぜん列を乱すのを見て、敵が草むらに待ちぶせているのをさとったからです。大将義家のようすに、家来たちもいっせいに弓をひき、またたくまに敵を追いちらしました)──これも、義家が兵法にすぐれていたことを伝えるエピソードのひとつです。
源頼義の長男として1039年に生まれ、元服して「八幡太郎」と名のった義家は、1051年に、東北の豪族安倍頼良と貞任、宗任の親子が朝廷にそむいて「前九年の役」をおこすと、わずか12歳で早くも戦にでました。
戦いは12年にもおよび、苦戦がつづきました。父の頼義とともに敵の大軍に囲まれたこともありました。しかし、義家はどんなときもひるまず、とくいの弓で敵をたおし、出羽国(山形・秋田県)の清原氏の力ぞえをえて、1062年に安倍氏を滅ぼしてしまいます。義家は、この戦いのてがらで出羽守に任じられ、1075年に父が死ぬと源氏の頭となって、朝廷につかえました。
1083年、義家はふたたび東北へ兵をむけました。安倍氏のあと勢力をのばしていた清原氏が、一族どうしで争いをおこし、義家は、これをしずめるために立ちあがったのです。
あるときは深い雪に道をとざされ、あるときは食べものがなくなり「前九年の役」のときよりも、もっと苦しい戦いがつづきました。義家は、「剛臆の座」というのを考え、その日の戦いで勇気をふるったものは剛の座に、臆病だったものは臆の座にすわらせて、兵をふるいたたせました。でも、寒さにこごえ死にそうな兵がいれば、一人ひとり声をかけて、いたわってやったということです。戦いは4年後に、義家の勝利で終わりました。
義家は、家来のことをいつも思いやりました。のちに「後三年の役」とよばれるようになったこの戦いのあと、朝廷は「義家は、ほんとうは清原氏の争いをしずめるよりも、自分の勢力をのばしたかったのだ」と考え、義家に、なんの恩賞もあたえませんでした。すると義家は、自分の財産をなげだして、家来たちにほうびを分けあたえたということです。義家のやさしさに、家来たちは感激の涙を流しました。そのうち、義家を慕う武士たちが、ますますふえ、源氏の力は関東一を誇るようになりました。
ひ孫にあたる源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、義家が亡くなって、およそ85年後のことです。
「7月4日にあった主なできごと」
1776年 アメリカ独立宣言…イギリスからの独立めざし前年から戦争のさなか、アメリカ東部13州はこの日に独立を宣言、7年後の1783年の「パリ条約」で正式に認められました。アメリカ合衆国では、以来この日を「独立記念日」としてお祝いをしています。
1807年 ガリバルディ誕生…たくさんの都市国家があり、フランスやオーストリアなどに支配されていたイタリアを、イタリア王国として統一させた ガリバルディ が生まれました。
1820年 フォスター誕生…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家 フォスター が生まれました。
1826年 ジェファソン死去…第3代アメリカ合衆国大統領で、イギリスからの独立宣言文を書いた ジェファソン が亡くなりました。
1934年 キュリー夫人死去…ラジュームを発見して夫ピエールといっしょにノーベル物理学賞をもらい、夫の死後ラジュームの分離に成功してノーベル化学賞をえた女性科学者 キュリー夫人 が亡くなりました。