今日6月3日は、明治・大正・昭和にわたり歌人・評論家・教育者として活躍した佐佐木信綱(ささき のぶつな)が、1872年に生まれた日です。
今の三重県鈴鹿市に、歌人の佐佐木弘綱の長男として生まれた信綱は、父から指導を受けながらわずか5歳で、短歌をつくりはじめました。1882年に父と上京、2年後に12歳で東京帝国大学古典科に入学して16歳で卒業後、父といっしょに『日本歌学全書』全12册の刊行を開始しました。いっぽう、短歌を新しい時代にふさわしいものにしたいと考えるようになり、落合直文、正岡子規、与謝野鉄幹らと短歌の革新運動をはじめました。
1898年には、短歌の集まり「竹柏会」を主宰、「歌は心の花であり、美の宗教である」として歌誌『心の花』を創刊。木下利玄、川田順らたくさんの歌人を育成しています。
1903年に歌集『思草(おもいぐさ)』で、歌人としての地位を確立、その後も『豊旗雲』『新月』をはじめたくさんの歌集を刊行、1963年に亡くなるまで、生涯に約1万首の歌を作っています。「ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」「秋さむき 唐招提寺の鴟尾(しび)の上に 夕日は照りぬ 山鳩の鳴く」は、よく知られています。また、文部省唱歌『夏は来ぬ』[卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早もきなきて 忍音もらす 夏は来ぬ] の作詞者でもあります。
1935年から26年間東大の講師として『万葉集』や歌学史などを講義して、その講義録を基にした『日本歌学史』『和歌史の研究』などの優れた著書を遺しています。また古典文学の研究や註釈、復刻にも力を尽くし、菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が平安時代中ごろに書いた回想録『更級日記』(藤原定家写本) の綴じ違えの発見などの業績を残しました。
1937年には文化勲章を受章。学士院会員、芸術院会員を長くつとめた他、歌会始の撰者でもあり、その流れから皇族に和歌を指導したことでも知られています。
なお、「いかに堪へ いかさまに ふるひたつべきと 試の日は 我らにぞこし」は、信綱が1923年9月の関東大震災にあった後に作られた歌です。信綱は12年もかけて、ようやく完成寸前までこぎつけていた『万葉集』関連の原稿やその資料を火災によって失ってしまいました。そんな茫然自失した気持ちと、この試練に負けずに強く生きようという決意があらわれていて、心打つものがあります。そして2年後、多くの人たちの協力をえて、『校本万葉集』(25巻)を完成させました。
この度の東日本大震災に直接の被害にあった人たちはもちろん、日本人大半の絶望感は、どんなに大きいものか量り知れないものがありますが、こんな歌を口ずさみながら、前向きに生きる勇気をもちたいものです。
「6月3日にあった主なできごと」
1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官 ペリー は、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわれる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。
1875年 ビゼー死去…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家 ビゼー が亡くなりました。
1899年 ヨハンシュトラウス(2世)死去…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家 ヨハンシュトラウス(2世) が亡くなりました。
1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領ケネディと、ソ連最高指導者フルシチョフは、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。