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バイオリンの鬼才・パガニーニ

今日5月27日は、『バイオリン協奏曲』 第1番・第2番(第3楽章が『ラ・カンパネーラ』として有名)などを作曲し、演奏家としても活躍したイタリアの作曲家パガニーニが、1840年に亡くなった日です。

1782年、イタリアの港町ジェノバで生まれたニコロ・パガニーニは、5歳のころから父にバイオリンの手ほどきを受け、13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれるほど、バイオリンの名手でした。あまりにも素晴らしい演奏に「悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」とうわさされるほど、伝説的な逸話がたくさん残されています。

パガニーニが23歳の時、ナポレオンの妹のエリーゼ姫に招かれ、宮廷で音楽会が何度も開かれました。ある演奏会の日、パガニーニはバイオリンのE線とG線だけを残して、他の線を切らせてしまいました。エリーゼ姫は「どうして2本の糸だけにしたの?」「E線は王女様、G線はこの私です。これから2本の線で、美しいお話をいたしますのでお聞きください」と、2本の線だけで見事な曲を披露しました。王女は感激して聞いていましたが、「それじゃ、私のE線を使わず、あなたのG線だけで弾いてちょうだい」といいますと、パガニーニは、ひるむことなく、G線だけであざやかに演奏してみせました。それが「G線のソナタ」だったということです。

作曲家としてのパガニーニの作品は、左手のピチカート・フラジョレット奏法など、高等技術を必要とする難曲として知られています。パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを恐れて楽譜を隠してしまい、ほとんど自作を出版しませんでした。その徹底ぶりも伝説的で、自らの演奏会の伴奏を担当するオーケストラにさえパート譜を配るのは演奏会の何日か前、本番後は楽譜をすべて回収しました。さらに練習ではパガニーニはソロを弾かず、楽団員でも本番で初めてパガニーニの弾くソロを聞くことができたといいます。

当時、パガニーニがどんなに人気だったかは、大作曲家といわれるリスト、シューマン、ブラームス、ラフマニノフらが、パガニーニの作品のテーマを用いて、さまざまな作品を残していることからも明白でしょう。しかし、そんな天才も病には勝てず、結核で数奇な人生を閉じました。

なお、1999年2月にNHKのドキュメント番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」が放送されて大反響を呼び、フジ子ブームが巻き起こりました。その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は発売わずか3か月で30万枚の売上を記録、日本クラシック界異例の大ヒットとなったことは記憶に新しいところです。この『カンパネラ』はパガニーニの曲をもとに、リストが練習曲としてピアノアレンジしたものです。


「5月27日にあった主なできごと」

743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇 は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。

1564年 カルバン死去…ルターと並び評されるキリスト教宗教改革・新教(プロテスタント)の指導者 カルバン が亡くなりました。

1910年 コッホ死去…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが亡くなりました。

1904年 日本海海戦…日露戦争中のこの日、東郷平八郎の指揮する日本海軍の連合艦隊と、ロシアの誇るバルチック艦隊が対馬海峡付近で激突。2日間にわたる戦いで、ロシア艦隊は、戦力の大半を失って壊滅。日本側の損失はわずかで、海戦史上まれな一方的勝利となりました。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ「東洋の奇跡」とさえいわれました。優位に立った日本は、8月のポーツマス講和会議への道を開きました。

投稿日:2011年05月27日(金) 06:26

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)