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画家で外交官のルーベンス

今日5月30日は、バロック時代のヨーロッパを代表する画家で、外交官でもあったルーベンスが、1640年に亡くなった日です。

「バロック」とは、16世紀末から17世紀初頭にかけてイタリアに誕生し、ヨーロッパじゅうに急速に広まった美術・文化の様式で、ルネサンス絵画の均整のとれた構図や理想化された人物表現から、動きの多い劇的な構図や豊かな人物表現に変わって行ったところに特色があります。

ペーテル・パウル・ルーベンスは、1577年、現在ベルギー第2の都市アントワープの出身だった両親が、宗教上の迫害をさけるために亡命していたドイツ西北部のジーゲンに生まれました。ルーベンスが10歳の時に父が亡くなったため、母はルーベンスを連れてアントワープへ戻りました。絵の修業を始めたのは14歳頃からで、3人の師の一人だったオットー・ファン・フェーンがギリシア・ローマ時代の古典に造詣の深い教養ある人物で、ルーベンスはこの師から特に大きな影響を受けながら修行、1598年にアントワープ画家組合に親方として登録されました。

1600年にはイタリアへ渡り、マントバ公の宮廷画家となるなど数々の作品を描き、1608年に帰国。長く争っていたオランダと休戦条約が締結され平和が戻ったフランドル地方には絵画の需要が急増、イタリア帰りのルーベンスに注文が殺到しました。まもなく、ネーデルランド(オランダ・ベルギー地区)の統治者となったアルブレヒト大公と公妃イサベルの宮廷画家となったルーベンスは、工房を設置して、バン・ダイクら数人の弟子を動員して大量の注文制作をこなしました。宗教画・歴史画・神話・肖像・風景画などあらゆるテーマの絵を残しています。ルーベンスが2000点を超えるほど多作なのは、この工房での作品が多いためですが、大きな作品の場合は、自分で下絵を描き、弟子たちに絵の具をぬらせ、最後に自身で仕上げて署名するということをしたためです。もちろん、肖像や家族の絵は、一人で描きました。

ルーベンスは1622年、パリに赴き、当時のフランス皇太后マリーの注文による、生涯を題材とした連作の制作にとりかかりました。マリーはフィレンツェのメディチ家の出身で、リュクサンブール宮殿に飾るために注文したものでした。ルーベンスは古代神話の神々や実在人物を巧みに画面に取り入れて、壮大な作品に仕上げました。『マリーのマルセイユ上陸』(下の絵・ルーブル美術館所蔵) は、ルーベンスの最大業績のひとつに数えられています。

Peter_Paul_Rubens_.jpg

ドイツ語、フランドル語、フランス語、スペイン語、さらに当時国際的な公用語だったラテン語を駆使するルーベンスは、1621年に大公が亡くなってからは、イザベル大公妃の相談相手になり、妃の命を受けてスペインのマドリードに派遣されフェリペ4世に気に入られ、宮廷画家だったベラスケスと親交を結びました。また、イギリスに渡って美術好きなチャールズ1世と親しく交際したり、イタリアへも足跡を残すなど、外交官として自国の平和に貢献したことでも知られています。


「5月30日にあった主なできごと」

1265年 ダンテ誕生…イタリアの都市国家フィレンツェに生まれた詩人で、彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』や詩集『新生』などを著し、ルネサンスの先駆者といわれる ダンテ が生まれました。

1431年 ジャンヌダルク死去…「百年戦争」 でイギリス軍からフランスを救った少女 ジャンヌ・ダルク が 「魔女」 の汚名をきせられ、処刑されました。

1912・48年 ライト兄弟死去…動力をつけた飛行機で、1903年に人類初の飛行に成功したアメリカの ライト兄弟 の、兄ウィルバーが1912年に、4歳下の弟オービルが1948年に亡くなりました。

1934年 東郷平八郎死去…日露戦争の日本海海戦を指揮し、ロシア艦隊を破ったことで「東洋のネルソン」と讃えられた 東郷平八郎 が亡くなりました。

投稿日:2011年05月30日(月) 06:20

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)