児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  「有機化学の父」 リービッヒ

「有機化学の父」 リービッヒ

今日5月12日は、有機化学の確立に大きく貢献し、19世紀最大の化学者と称されるドイツのリービッヒが、1803年に生まれた日です。

ユスツス・リービッヒは、ドイツ中央部のダルムシュタットに生まれました。父が薬物の製造・販売を営んでいたため、幼い頃から化学の実験を目にする機会に恵まれ、次第に父の実験の手伝いをするようになりました。当時のダルムシュタットは、ヘッセン大公国の首都で、その宮廷図書館には化学関連の書籍がそろっていて、リービッヒは学校よりもこの図書館へ通って勉強したため、少年時代からおとな顔負けの化学知識を身につけていきました。そのうち、化学の研究に生涯をかけようと決意したリービッヒは、15歳のとき薬剤師のもとへ徒弟として住み込むことになります。ところが、薬剤師の仕事は化学の研究とは無縁のものだったのがわかり、そのため居室として与えられた屋根裏部屋で化学実験をくりかえすのでした。

やがて、リービッヒの化学知識が評価され、1820年にヘッセン政府から奨学金を受け、新設されたばかりのボン大学に入学することができました。でも当時のドイツの化学のレベルは低く、学生のための実験室もないありさまです。他の大学を見ても大差がありません。ドイツにいてはりっぱな化学者になれないことに気がついたリービッヒは、ヘッセン大公から留学の許可をもらって、当時の化学の最先端を走っていたパリ大学に入学することができました。

ここで、大化学者ゲイ・リュサックの弟子となったリービッヒは、水を得た魚のように実力を発揮し、1824年には爆薬の雷酸塩という物質の分析を行い、その組成を明らかにしたことを、パリ学士院に報告しました。ちょうどその頃、パリに来ていたドイツの地理学者のフンボルトは、リービッヒの優れた報告に感心し、帰国後ドイツのギーセン大学に推薦、ヘッセン大公は、大学にはかることなくわずか21歳のリービッヒをギーセン大学の助教授に任命しました。リービッヒの能力は同僚たちにも高く評価され、翌年には教授に昇進しました。その後25年間、リービッヒはこの小さな町にとどまり、たくさんの業績の大部分の研究と教育に身を捧げました。最大の功績は、政府を説きふせて学生の実習用の化学研究室をこしらえたことでした。この実験室は、たちまち世界中に知れわたり、あらゆる国々から集まった優秀な学生たちは、朝から夜中まで休みなく実験と討論を続けたことで、19世紀の代表的な化学者のほとんどはこの小さな大学の門をくぐったことがあるというほど、世界一の化学学校にのしあがったのでした。

そのほか、リービッヒの残した主な業績は、次のとおりです。
(1) 親友のベーラーとともに、有機化合物の定量分析法を考案し、有機物を研究する学問(有機化学)が初めて科学的にスタートを切るきっかけをこしらえたこと。
(2) 基(き・化学反応のとき、分解しないで他の化合物にそのまま移ることのできる原子の集団:水素基OH、メチル基CH3など)を発見して有機化学を体系化したこと。
(3) 動物には脂肪、たんぱく質、でんぷんの3つが欠かすことができない栄養素であることを明らかにしたこと。
(4) 植物の生育には、窒素、リン酸、カリウムがもっとも重要な要素であることを明らかにし、リービッヒの最小律などを提唱して、これに基づいて化学肥料を作ったこと。
(5) 科学を一般の人たちに理解してもらうことが大切であると、日刊新聞にわかりやすい言葉で綴り続けたこと。

リービッヒは、1845年には男爵の位をさずけられ、1852年にはバイエルン政府の招きでミュンヘン大学化学教授となってたくさんの後継者を育て、1873年に亡くなるまでこの地位にとどまって化学の発展に寄与したのでした。


「5月12日にあった主なできごと」

1534年 織田信長誕生…群雄割拠といわれる戦国時代を走りぬけ、全国統一を目の前にして家臣明智光秀の謀反に倒れた武将・織田信長 が生まれました。

1698年 青木昆陽誕生…江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者として有名な 青木昆陽 が生まれました。

1820年 ナイチンゲール誕生…「クリミヤの天使」「愛の天使」と讃えられ、近代看護学の普及に尽力した ナイチンゲール が生まれました。5月12日は国際的にも「ナイチンゲール・デー」 と制定され、1991年から日本でも「看護の日」とされています。

1939年 ノモンハン事件…日本軍が実質的に支配する満州国とモンゴルの国境線にあるノモンハン付近では、両国の主張する国境線の違いから、ときおり小規模な紛争をくりかえしてきました。しかし、この日の紛争は大規模なもので、日本とモンゴル、モンゴルと軍事同盟をむすんでいるソ連軍がからんで長期戦となりました。戦闘は9月まで続き、日本軍は優秀な機械化部隊によるソ連軍の援軍に苦戦し、戦没者数を1万8000人ともいわれる敗北をきっしました。ソ連側も2万人を越える死傷者があったようで、同年9月15日に休戦協定がむすばれました。

投稿日:2011年05月12日(木) 06:59

 <  前の記事 口語詩を確立させた萩原朔太郎  |  トップページ  |  次の記事 かえん太鼓  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2396

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)