今日5月11日は、大正・昭和前期に活躍した詩人・萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)が、1942年に亡くなった日です。
1886年、群馬県前橋市の開業医の長男として生まれた朔太郎は、幼少のころから文学に興味を持ち、読書に熱中しました。しかし、短歌づくりなどあまりに文学に熱中しすぎて前橋中学を落第、熊本の第五高校では2年に進級できず、岡山の第六高校に入り直すも2年になれないまま退学して上京、慶応大学でも中途退学するなど、学業での挫折がきっかけになって本格的に文学に進む決心ができましたが、もうすでに27歳になっていました。
まもなく雑誌「ザムボア」に投稿した5編の詩が北原白秋に認められ、名が知られるようになりました。そして、同じ号に掲載された室生犀星に手紙を書いたことで、二人は終生の友となりました。1916年には犀星と詩の同人誌 「感情」を創刊し、翌1917年に初めての詩集『月に吠える』を刊行しました。下に掲げる「竹」など人間の不安や孤独感などを口語体で綴った50数編からなるこの詩集は、森鴎外や与謝野晶子らにその新しい感覚を賞賛され、たちまち詩壇に注目される存在となりました。
「竹」
光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より纖毛が生え、
かすかにけぶる纖毛が生え、
かすかにふるえ。
かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。
さらに1923年には、第2詩集『青猫』を発表、約50編の口語自由詩は、叙情の美しいリズムにのせて、哀傷・憂鬱・倦怠感を繊細に表現したことで、「日本口語詩の確立者」として詩壇に確固とした地位を築き上げました。翌年には『純情小曲集』を著わし、「旅上」など若い時代にこしらえたという詩を発表しています。
「旅上」
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
このほか朔太郎は、詩集『氷島』、当時の詩のあり方を批判する詩論集『詩の原理』、評論集『日本への回帰』などを遺しています。いっぽう、実生活の上では、医師の長男でありながら生涯定職につかなかった負い目を意識したり、2度離婚するなど家庭的にも恵まれない人生だったようです。
なお、オンライン図書館「青空文庫」では、詩集『月に吠える』『青猫』ほか朔太郎の作品39編を読むことができます。
「5月11日にあった主なできごと」
1891年 大津事件…日本訪問中のロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が琵琶湖見物の帰りに大津市を通ったとき、警備の巡査に突然斬りかかられました。この「大津事件」でロシアとの関係悪化を恐れた政府は、犯人の死刑判決を求めましたが、大審院(現在の最高裁判所)は政府の圧力をはねつけ「無期懲役」の判決を下しました。これにより日本の司法権への信頼が、国際的に高まりました。
1970年 日本人エベレスト初登頂…松浦輝夫と植村直己が日本人初となる世界最高峰エベレストの登頂に成功しました。