今日4月19日は、 アダム・スミスに始まるイギリスの「古典派経済学」を完成させたといわれる経済学者のリカードが、1772年に生まれた日です。
デビッド・リカードは、17人兄弟の3男としてロンドンに生まれました。父はユダヤ人の証券仲買人で、リカードが生まれる少し前にオランダからイギリスへ移住してきたばかりでした。父親は学問などあまり役立たないと考えていたのでしょう、リカードをほとんど学校へ通わすことなく、14歳で自分の証券仲買の仕事を手伝わすようになりました。ここでリカードは、業界のツボを、いち早く身に着けていきました。
ところが21歳のときリカードは、キリスト教信者の娘と恋に落ち、ユダヤ教からキリスト教に改宗したため、猛烈に反対する父と分かれざるをえませんでした。しかたなく一人で株式仲買人をはじめたものの、生活はすぐにひっ迫しはじめます。しかし当時のイギリスは、産業革命の真っただ中にあって、フランス革命やナポレオン戦争の影響もあって証券業の盛んな時です。能力のあるリカードは、時期をうまくつかんでまたたくまに頭角を現し、30歳のころには、イギリス財界でも有力者のひとりに数えられるほど、大成功を収めるに至りました。
いっぽうリカードは、仕事のかたわら、化学や地質学などの自然科学が好きで、生活にゆとりができるにつれて、鉱物の標本集めや、化学の実験を楽しむようになっていました。1779年のある日、温泉地でくつろいでいる時、巡回文庫から何げなくアダム・スミスの『国富論』を借りて読みました。この本は、資本主義経済を初めて理論づけた本で、リカードが経済学に興味を持つきっかけとなったのです。同じころに出版されたマルサスの『人口論』の2冊から、リカードは大きな影響を受けました。とりわけマルサスとは、1809年ころから親しくつきあいはじめ、生涯よきライバルでした。
当時のイギリスは、イングランド銀行が金本位制停止によって紙幣を増発したのが原因で、インフレーションを招いていました。これに対してリカードは『地金の価格高騰について』という論文を1810年に発表して、金本位制への復帰を主張、経済学者として有名になりました。さらに、穀物の輸出入に制限を加えて地主や農民を保護しようとした法律「穀物条例」が1815年に成立すると、これを支持するマルサスと真っ向から対立して条例廃止を主張する論文を著わし、2年後には主著となる『経済学および課税の原理』を刊行、自由貿易による利潤蓄積の増大が国富を増進させること、資本主義社会においては富はどのように分配するべきかといった分配法則や、地代どうするべきかなど、独自の学説を明らかにしています。
1819年には、証券業をすっかりやめると、下院議員に選出されました。リカードは労働者階級の味方というわけではありませんでしたが、政府が労働組合を圧迫したり、言論や集会の自由を破ったときは、敢然と反対をとなえました。議員になってからも経済学研究は続け、リカードの学説をつきつめていくと、アダム・スミスの「労働価値説」(商品の値打はこれを生産する労働の量の大きさによってきまる)をさらに徹底して、商品価値は投下された労働量によってきまるというものでした。
こうして、リカードのところへは、マルサスやジェームズ・ミルら、優れた経済学者たちが集まり、議論を戦わすのが常でした。1820年には「経済学クラブ」を創設し、イギリス経済学を盛んにする役割を担いましたが、身体の弱かったリカードには重荷になったようで、1823年51歳のとき、原因不明の病で亡くなったのでした。後にリカードの唱えた「労働価値説」は、ジョン・ミルやカール・マルクスらによって科学的に発展されていきます。
「4月19日にあった主なできごと」
1775年 アメリカ独立戦争の開始…イギリスの支配から独立するため、アメリカが8年以上にわたって民主主義革命をなしとげた戦争を開始しました。
1824年 バイロン死去…ヨーロッパじゅうがゆれ動き、混乱していた19世紀の初めに、ロマン派の代表的な詩人として活躍しイギリス最大の詩人のひとりといわれる バイロン が亡くなりました。
1882年 ダーウイン死去…イギリスの博物学者で、生物はみな時間とともに下等なものから高等なものに進化するという「進化論」に「自然淘汰説」という新しい学説をとなえた ダーウィン が亡くなりました。
* 4月20日からプライベートで 「クロアチア・スロベニアなど、旧ユーゴスラビア4か国の旅」 へ出かけるため、しばらくブログを休載いたします。次回は5月9日からの予定です。