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真珠湾を奇襲した山本五十六

第2次世界大戦のうち、日本がアジアに進出して、アメリカ、イギリス、中国などの連合国と戦った戦争を、とくに太平洋戦争とよびます。今日4月4日は、日本が、この太平洋戦争を進めたときの日本海軍司令官の山本五十六(やまもと いそろく)が、1884年に生まれた日です。

新潟県長岡市で、儒学者の家系の6男に生まれた五十六は、幼い頃から聡明で、海軍兵学校、海軍大学校を卒業。日露戦争に出征し、日本海海戦で大やけどを負い、左指2本を失いました。1919年から2年間、アメリカのハーバード大学で学び、その後米国駐在員に任命されました。1934年には、ロンドンで開かれた米・英・日・仏・伊5か国による「海軍軍縮会議」では日本代表になるなど、しだいに日本海軍の中枢を担うようになっていきました。

五十六は、世界の海軍力を比較すると、日本の海軍力がアメリカに大きく劣ることを痛感していました。特に航空部門に大きな差があると考え、海軍航空本部技術部長、第1航空戦隊司令官、海軍航空本部長として、特に航空の重要性を力説してその充実に力を注ぎつづけました。

1939年に55歳で連合国艦隊司令長官になった五十六は、日本がアメリカと戦うことにはあくまで反対でした。1940年に、日本がドイツ、イタリアとの軍事同盟「三国同盟」が検討されることになったときも「それではアメリカ、イギリスを敵にまわすことになってしまう」と断固反対しましたが、陸軍や右翼の圧力に屈して、条約を結ばざるをえませんでした。

対米戦争の勝算をたずねられた五十六は、次のように答えました。「それは是非やれと言われれば、初めの半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのはしかたないが、かくなりし上は日米戦争を回避するようご努力願いたい」と。この言葉が「1年ならば勝てる」との意味に受け取られて、戦争に踏み切らせたという見方をする人もいます。

1941年12月8日、日本はついに戦争の火ぶたを切ってしまいました。「戦争が長びけば日本は負ける。早く敵に打撃をあたえて、アメリカ国民たちに戦争をつづける気をなくさせることが第一だ」 ──このように考えた五十六は、ハワイの真珠湾奇襲攻撃を成功させました。五十六は、奇襲攻撃の最後通牒を、攻撃前に行うよう指示していましたが、ワシントンの日本大使館のミスにより、最後通牒は奇襲後に届くことになって、アメリカに [国際信義にもとる、卑劣なだまし討ち] という口実を与えしまったのは誤算でした。

五十六の予言通り、戦いを有利に進めてきたものの、開戦からわずか半年のちの1943年4月、日本は敗戦を決定づける「ミッドウェー海戦」に敗れました。五十六は、飛行機で前線を視察する途中に暗号を解読され、ブーゲンビル上空で待ち伏せしていた米軍機に撃墜され、戦死したのでした。


「4月4日にあった主なできごと」

1284年 北条時宗死去…鎌倉幕府の第8代執権で、文永・弘安の役で、攻めてきた元の軍隊を退けた北条時宗が亡くなりました。

1615年 大坂夏の陣…前年、大坂冬の陣で大坂城を攻め落とせなかった徳川家康は、講和を条件に外堀を埋めさせて防備が弱くなったところへ、諸大名の兵20万人を率いて攻め入り、落城させました。豊臣秀頼と生母淀君は自殺し、ここに豊臣家は滅びました。

1968年 キング牧師暗殺…アメリカの黒人指導者キング牧師は、白人による人種差別撤廃する法律を認めさせ、黒人の権利と自由を求める公民権運動を進めたことで、ノーベル平和賞を受賞したばかりでしたが、これに反発した白人により、この日演説中に暗殺されました。

投稿日:2011年04月04日(月) 06:54

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)