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チベットと河口慧海

今日2月24日は、日本人として初めてチベット入国に成功し、経典の翻訳やチベット語の研究に多くの業績を残した仏教学者・探検家の河口慧海(かわぐち えかい)が、1945年に亡くなった日です。

慧海は1866年、桶や樽を作る職人の子として大坂(現・大阪)の堺に生まれました。本名は定次郎といい、慧海の名は、24歳で出家してからのものです。父に「職人の子に学問はいらぬ」と小学校を退学させられ、その後『釈迦一代記』を読んで心をうたれた慧海は、自分も シャカ のようにきびしく生きることを誓い、仏教の世界へ近づいていったといわれています。

私塾で勉強をつづけたのち東京へでて、貧しさとたたかいながら哲学館(いまの東洋大学)に学び、卒業まえに、東京本所の五百羅漢寺の住職になりました。しかし1年後には宗教団体に不満をいだいて、住職をしりぞいてしまいました。

26歳の年に慧海は、正しい経典をさがしに、チベットへ行こうと決心をしました。住職をやめたのちも、一切蔵経などを読んで修行をつづけるうちに、日本の経典には誤りが多いことに気づき、チベットへ行けば正しい原典を手に入れることができるのでは……と、考えたのです。ところが、チベットは、鎖国のように国を閉じていた時代です。しかも平均4000メートルの高山と高原の上にある国です。「チベットは野蛮人の住む国だ」と信じている人びとから、旅をあきらめるように、何度も忠告されました。でも、きびしく生きようとする慧海の心は、もう変わりません。

1897年、31歳の慧海は、神戸から船に乗りました。しかし、そのままチベットへ入ったわけではありません。途中、インドで1年チベット語を学び、さらに、ヒマラヤ山中の村でやはり1年、チベット仏教を学び、やっとチベット国境を越えたのは、日本をでてから4年目のことでした。このとき慧海は、身なりも言葉も、すっかりチベット人になりきっていたということです。

チベット人になりすませた慧海は、ラサ大学に学び、法王にも会うことができました。ところが、2年後にはチベットを命からがら脱出しなければなりませんでした。日本人であることを見やぶられそうになったのです。慧海は、目的を十分に果たさないまま、1903年に、日本へ帰ってきました。慧海は翌年、ふたたびチベットへむかい、こんどは11年後におおくの経典やチベット民族の資料を持ち帰って、ついに、大きな夢をなしとげました。

その後の慧海が、79歳で亡くなるまでに、たくさんの仏教の本を著わし、正しい仏教の普及に大きな業績を遺しました。しかし、仏教学者としての功績以上に、勇気あるチベット探検記『西蔵旅行記』などは、民族学者や探検家にも高く評価されています。


「2月24日にあった主なできごと」

1786年 グリム兄弟・弟誕生…ドイツに伝わる民話を「グリム童話」として集大成した グリム兄弟 の弟ウィルヘルムが生まれました。

1815年 フルトン死去…1807年、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功したアメリカの技術者で発明家の フルトン が亡くなりました。、

1873年 キリスト教禁制撤廃…1612年以来禁止されてきたキリスト教を、明治政府も国禁にしてきましたが、この日「キリスト教国禁」の高札を撤去。欧米諸国の非難や、条約改正を妨げる一因をなしていることを知った政府は、キリスト教を黙認する決断をしました。 まもなく、横浜、神戸、東京、大阪などにあいついで教会が建設され、明治文化や教育の発展に大きな力となりました。

1933年 国際連盟総会で抗議の退場…日本の国際連盟代表の松岡洋佑ら代表団は、スイスのジュネーブで開かれた臨時総会で、議場からいっせいに退場しました。前年に日本が中国東北部に建設した「満州国」を国際連盟が認めず、軍を引き上げるよう求める勧告案を、賛成42、反対1、棄権1で採決したことに抗議したものです。この総会の後日本は、3月27日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立する道を歩みはじめました。

投稿日:2011年02月24日(木) 06:00

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)