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『真珠の女』 のコロー

今日2月22日は、詩情あふれる森や湖の風景画、『真珠の女』などの人物画の傑作を描き、次代の印象派の画家たちに多くの影響を与えたフランスの画家コローが、1875年に亡くなった日です。

コローの生きていた時代のフランスは、革命、ナポレオン戦争、王政復古、プロシア・フランス戦争、パリコミューンなど、政治的にも社会的にも激動期で、多くの画家たちもその荒波に翻弄されましたが、コローは、79年の長い生涯を通じて、おだやかに、絵ひとすじに生き抜いた人でした。経済的に恵まれ、一生独身を貫き、無欲で友情にあつく、貧困と盲目のために悲惨な状態にあった親友のドーミエに家を買って与えたり、自身が死の床にあってもミレーの死を聞くと、家族に金を送ってやるほどの人情家でもありました。

1796年、パリの裕福な織物商人の子として生まれたカミーユ・コローは、学生時代はルーアンやパリ近郊の寄宿学校で学びました。コローは画家になることを望んでいましたが、父親が反対し、布地商人の見習いとなって修業をしました。1822年26歳の時、ようやく父の許しを得て画家を志し、当時のアカデミックな風景画家ミシャロンに師事しました。ところが指導を受けて数か月で亡くなったため、その師だった当時のフランス風景画の第一人者ベルタンに師事することになりました。

コローは生涯に3度イタリア旅行をしています。1回目の旅行はもっとも長く、画家を志した3年後の1825年からおよそ3年間、ローマとその近郊を中心に、べェネチアなどにも滞在しています。さらに1834年と1843年にもそれぞれ半年ほどイタリアに滞在したことで、自然から受ける感銘を、夢幻の雰囲気の中に表現するといった独自の風景画をあみ出し、コローの画業に決定的な影響を与えました。晩年に至るまでフランス各地を精力的に旅行し、各地の風景をキャンバスにとどめています。特にパリ郊外に父が購入した別荘に滞在したり、フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾン村をひんぱんに訪れて、ミレーらと交友を深めました。

コローは、初のイタリア旅行中のころから、画家の登竜門でもあるサロンに毎年のように出品していました。しかし、なかなか高い評価がえられませんでした。名声を手にしだしたのは、60歳をこえてからで、1848年にはコロー自身がサロンの審査員に任命されるまでになりました。1855年のパリ万国博覧会には6点の作品を出品し、グランプリを得ています。

Corot-Womanl.jpg

コローといえば風景画というイメージがありますが、晩年には『真珠の女』をはじめ『青衣の女』など人物画の名品をいくつか残しています。コロー独自の銀灰色の基調のなかに、手のしぐさや眼の輝きや唇の微妙な動きなど、心象表現をみごとに演出していると評価されていて、特に『真珠の女』は、ダ・ビンチの『モナリザ』をイメージした作品といわれ、ダ・ビンチが生涯『モナリザ』を手放さなかったように、コローも死ぬまでこの絵を客間に飾っていたそうです。


「2月22日にあった主なできごと」

622年 聖徳太子死去…用明天皇の第二皇子で、推古天皇(叔母)の摂政として、「17条の憲法」「冠位十二階」の制定など、内外の政治を立派に整えた飛鳥時代の政治家聖徳太子が亡くなりました。

1732年 ワシントン誕生…イギリスからの独立戦争で総司令官として活躍し、アメリカ合衆国初代大統領となったワシントンが生まれました。

1848年 フランス2月革命…フランスの首都パリで、選挙改革を求める集会が禁止されたことに抗議した労働者や学生がデモ行進やストライキを行ったことで、国王が退位して、第2共和制がスタートしました。革命はヨーロッパ各地に伝わり、ナポレオンの失脚後の「ウィーン体制」(1789年のフランス革命以前の状態を復活させる) の崩壊につながりました。

1989年 吉野ヶ里遺跡…佐賀県にある「吉野ヶ里」の発掘調査の結果が発表され、国内最大規模の弥生時代の環濠(かんごう)集落と大々的に報道されました。

投稿日:2011年02月22日(火) 06:19

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)