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洋式砲術の先覚者・高島秋帆

今日1月14日は、江戸時代後期・幕末期の砲術家として活躍した高島秋帆が、1866年に亡くなった日です。

高島秋帆は1798年、長崎の代々町年寄(町政をあずかる役)の子として生まれました。高島家が、日本で唯一の海外と通じることができた出島に出入りできる家柄だったため、秋帆は、父の代から研究のはじまった砲術を学びはじめました。

出島に入る外国の情報を知るうちに秋帆は、日本砲術と西洋砲術のあまりの差にがくぜんとしました。そこで、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器などをそろえ、1834年に「高島流砲術」を完成させました。さらにこの年、門弟を集めて砲術の塾を開きました。佐賀藩の領主鍋島茂義も門人のひとりで、免許皆伝を与えるとともに、自作第1号の大砲を1835年に献上しています。

1840年、清が「アヘン戦争」でイギリスに敗れたことを知った秋帆は、洋式砲術の必要性を訴える意見書を、幕府に提出しました。幕府も、しばしば日本近海に現われる外国船に頭を悩ませていたため、老中・水野忠邦は、1841年、武州徳丸ヶ原(現・東京板橋区高島平)で、秋帆に日本初となる洋式砲術と洋式銃の公開演習を行なわせました。

この演習は大成功をおさめ、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、江川英龍らに砲術を伝授させました。ところが、秋帆をねたんだ者が、「秋帆は密貿易をし、外国兵を受け入れようとしている」という訴えをおこしたことで、秋帆は1842年、伝馬町の獄に投ぜられ、高島家は断絶となってしまいました。

1853年、ペリー の黒船による来航という社会情勢の変化により、秋帆は赦免されて出獄することができました。そして、処罰を覚悟の上で「海防が不備ではアメリカとは戦えない」と老中の阿部正弘に進言するなど、再び活動を開始しました。1855年、幕府の講武所の教授方頭取として品川砲台を完成させ、1857年には砲術指南役となって江川太郎左衛門らを育てるなど、65歳で亡くなるまで、軍政面で力をつくしました。


「1月14日にあった主なできごと」

1602年 狩野探幽誕生…日本画を代表する狩野派の、江戸幕府代々の御用絵師として栄える基礎を築いた 狩野探幽 が生まれました。

1843年 新島襄誕生…同志社を設立するなど、明治の初期に教育者・宗教家として活躍した 新島襄 が生まれました。

1875年 シュバイツァー誕生…アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネで、生涯を原住民への医療などに捧げたドイツの神学者・医師 シュバイツァー が生まれました。

1898年 ルイス・キャロル死去…イギリスの数学(幾何学)者でありながら、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したルイス・キャロル(本名ドジソン)が亡くなりました。 

1925年 三島由紀夫誕生…ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家でありながら、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげた 三島由紀夫 が生まれました。

1950年 ベトナム民主共和国再独立宣言…1945年9月、ホーチミン を大統領とするベトナム民主共和国が独立を宣言し、東南アジア最初の共産主義国家として独立しました。しかし、翌年支配国だったフランスが待ったをかけ、8年にもわたる第1次インドシナ戦争に突入、1949年6月、「ベトナム国」(南ベトナム) がサイゴンを首都に成立しました。この日ホーチミンは、ベトナム国に対抗して「ベトナム民主共和国」(首都ハノイ・北ベトナム)として再独立を宣言したものです。なお1976年、北ベトナムは南ベトナムを吸収、ベトナム民主共和国は「ベトナム社会主義共和国」となって統一をはたし、現在に至っています。

1953年 チトー大統領…独立まもないユーゴスラビアは、この日ユーゴ解放の国民的英雄 チトー を大統領に選びました。チトーの指導のもとに、非同盟中立という、社会主義国ばかりでなく資本主義国とも手をつなぐという独自の方針を貫き、6つの共和国をまとめあげました。しかし、1980年チトーの死とともに、共和国間の紛争があちこちでおこり、1991年「クロアチア」「マケドニア」「スロベニア」、1992年「ボスニア・ヘルツェゴビナ」が独立、2003年にユーゴスラビアは、セルビア・モンテネグロとなって独立、2006年には「セルビア」と「モンテネグロ」に分離したため、旧ユーゴスラビアは、「クロアチア」「マケドニア」「スロベニア」「ボスニア・ヘルツェゴビナ」「セルビア」「モンテネグロ」の6か国になっています。

投稿日:2011年01月14日(金) 07:24

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)