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障壁画の大家・狩野永徳

今日1月13日は、『唐獅子図屏風』『洛中洛外図屏風』『山水花鳥図』など、室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心だった[狩野派]を代表する狩野永徳(かのう えいとく)が、1543年に生まれた日です。

ふすま、障子、屏風(びょうぶ)、壁などにえがかれた絵を、障壁画といいます。織田信長が天下取りの夢を果たしかけた1575年から、豊臣秀吉が死んで徳川家康が天下を統一する1600年までの安土桃山時代は、この障壁画がもっとも栄えた時代です。

信長や秀吉は、自分の力をしめすために城や寺を盛んに建て、一流の絵師に、障壁画の腕をふるわせました。狩野永徳は、この時代を代表する絵師です。

永徳は、日本画で有名な狩野派を受けついできた家に生まれました。父の松栄も、祖父の元信も、すぐれた絵師でした。とくに、狩野派の基礎をきずいた元信は、仕事にたいへんきびしく、仕事中は、たとえ大名がたずねてきても「絵師が筆をとっているときは、武士が真剣勝負をしているときと同じだ」と、応待にも出なかったという話が残っているほどです。

永徳は、幼年時代から、このきびしい祖父の教えをうけ、16歳のときに祖父を失ったころには、すでに狩野派の絵師として世に知られていました。そして20歳をすぎると、貴族の家や寺院の障壁画に、父松栄をしのぐ筆をふるうようになりました。

33歳のとき、永徳の名を天下一にする機会がおとずれました。信長がきずいた安土城の5層7重の天守閣に、障壁画をえがくことを命じられたのです。永徳は、金箔を張りつめた大障壁に力づよい筆を走らせ、信長に「これこそ天下に二つとないものじゃ」と、うならせました。

信長が本能寺で明智光秀に殺されてからは、秀吉に重く用いられ、大坂城や聚楽第の障壁も、永徳の筆でかざりました。また、大きな屋敷を建てた大名たちにもまねかれて、数おおくの絵をえがきました。壁やふすまなどをかざった松、梅、人物などは、実物に近いほどの大きさのものもあり、その雄大さや迫力は、戦乱の世に生きる武将たちの心をとらえてはなしませんでした。眼光のするどい唐獅子が岩のあいだをのし歩く『唐獅子図屏風』(下の絵) などは、おそろしいほどの力にあふれています。

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しかし、この作品のほか、織田信長が上杉謙信におくったとされる『洛中洛外図屏風』、京都の大徳寺聚光院の『山水花鳥図』などをのぞくと、永徳の絵とはっきりしているものは、ほんのわずかしか残っていません。おおくは、武士の争いで焼け失せてしまったとみられています。

永徳は、1593年に父よりも2年早く、47歳で世を去りました。このとき絵師からも武士からも、その早い死が惜しまれたということです。まさに日本画壇を代表する天才的画家の一人でした。


「1月13日にあった主なできごと」

1199年 源頼朝死去…武士による初めての政権となった鎌倉幕府の初代将軍 源頼朝 が亡くなりました。

1653年 玉川上水…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、町人(玉川)清衛門、庄衛門兄弟に建設を命じました。多摩川上流の羽村から四谷まで50km余に水を通す出す大規模な難工事で、翌年6月、江戸市内に流れこんだ清流に、江戸市民は躍り上がって喜びました。江戸の人口は、17世紀末には100万人に達し、ロンドンやパリを越えて世界一だったそうです。

1860年 咸臨丸出港…江戸幕府のオランダから購入した洋式軍艦咸臨丸は、この日品川沖からアメリカに向けて出港しました。勝海舟 を艦長に、福沢諭吉、中浜万次郎 らをのせて、初の太平洋横断に成功しました。
 
1864年 フォスター死去…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家 フォスター が亡くなりました。

1935年 ザールがドイツ復帰…ドイツとフランスの国境にあり良質な石炭に恵まれ鉄鋼業や工業が盛んだったザール地方は、第1次世界大戦後ドイツ本国から分離され、フランスの保護領になっていました。この日の住民投票の結果、ドイツへ復帰、ヒトラーはこれをナチスの勝利として、さらに領土拡大のために軍備を整えていきました。

投稿日:2011年01月13日(木) 07:33

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)