今日11月24日は、イギリス生まれでアメリカ合衆国で活躍した女流小説家・劇作家のバーネット夫人が、1849年に生まれた日です。
後にバーネット夫人となるフランシス・イライザ・ホジソンは、イギリスのマンチェスターに生まれました。幼ないころから妖精物語を好む想像力の豊かな子でしたが、父が事業に失敗した後に亡くなり、1865年に一家と共にアメリカのテネシー州ノックスビルへと移住しました。アメリカ南北戦争による不景気で家業がつづかなくなり、家計を助けるために小説を書きはじめました。まもなく女性向け月刊雑誌に物語を発表するようになります。1873年に医者のスワン・バーネットと結婚してから、バーネット夫人と呼ばれるようになりました。
1886年に雑誌に発表した『小フォントルロイ卿』(邦題『小公子』)は、子ども向けとして書かれた作品でしたが、母親に人気を博し、50万部のベストセラーとなりました。この作品は、1892年に日本でも発売され、若松賤子という人が、『小公子』と訳してから有名になり、今も『小公子』の名で親しまれています。
さらに、1888年『セーラ・クルー』を発表、この作品は1905年に『小公女』と改題されて書き直されました。1890年代後半、バーネット氏と離婚後は主にイングランドに居住しましたが、1905年にアメリカ合衆国の市民権を取得して1909年に米国に戻り、同年『秘密の花園』を発表しました。ニューヨーク州プランドームで余生を送り、1924年に死去。生涯におよそ50作品を著しました。
なお、代表作『小公子』は、こんな内容です。
少年セドリックは、母エロルとニューヨークの裏町に住んでいます。快活で、だれにも親切なセドリックは町の人気者で、とくに雑貨屋のホッブスや靴磨きのディックとは大の仲良しでした。しかし、ある日訪ねてきた紳士に、セドリックがイギリスの伯爵家の跡取りであることを聞きました。セドリックの父はドリンコート伯爵の3男で、アメリカに来て伯爵の反対を押しきってセドリックの母と結婚しましたが、亡くなってしまいました。セドリックの伯父二人も死亡したため、跡取りは、セドリックしかいなくなったのです。 セドリックは、ホッブスやディックらと別れて、イギリスの祖父のところへ行くのはいやでしたが、悩んだ末にイギリス行きを決断します。
ドリンコート伯爵は頑固なかんしゃく持ちで、セドリックの母エロルが息子をたぶらかしたと嫌っていました。そのためエロルとセドリックを引き離し、セドリックを貴族フォントルロイ卿として育てようとします。 しかし、それを知らないセドリックの無邪気さや、純粋で明朗な優しさは、ドリンコート伯爵のかたくなな心を少しずつ動かし、変化させていくのです。
そんなある日のこと、伯爵の長男と結婚をしたというミナと名乗る女性が子どもを連れて訪れ、その息子トムこそが正当なフォントルロイ卿であると主張しました。トムが、セドリックと比べてあまりに品のないことに落胆したドリンコート伯爵は、エロルにあい、彼女が立派な女性で、セドリックが伸びやかに育ったのはエロルのたまものであると気づきましたが、すでに手遅れと思われました。
この事件はイギリスじゅうの新聞に出て、「どちらが本物の小公子か」と大騒ぎになりました。靴磨きのディックは、客に見せられた新聞の写真を見て、ミナとトムの正体に気づきました。ミナは以前にディックの兄と結婚しており、トムは二人の子だったのです。 ディックは、雑貨屋のホッブスといっしょに、セドリックを助けようとイギリスにかけつけました。そして、ふたりの友人たちのおかげで真実が明らかになっていくのです……。
なお、『小公女』と『秘密の花園』(共に抄訳版)は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「レディバードブックス100点セット」の日本語訳で読むことが出来ます。
「11月24日にあった主なできごと」
1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した最後の元老政治家といわれる西園寺公望が亡くなりました。
1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を敢行しました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。