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「ユートピア社会主義」 のオウエン

今日11月17日は、「人間は環境によって変えられる」と主張したイギリスの社会改革家オウエンが、1858年に亡くなった日です。

18世紀から19世紀にかけてイギリスを中心におこった産業革命は、人びとを資本家と労働者という2つの群れに分けることになりました。労働者を使う資本家は、満ち足りた生活を楽しむのに対し、労働者は1日に15時間もの労働にたえ、苦しい生活を余儀なくされていたのです。オウエンは、そんなみじめな生活をする労働者の味方になり、労働者によい環境を用意することを、生涯考えつづけた人でした。

北ウェールズ地方のニュータウンで、1771年中流商人の家庭に生まれたロバード・オウエンは、子どもの頃から負けずぎらいの性格でした。10歳のとき、馬具商を営む兄を頼ってロンドンに出て、18歳までに呉服商などさまざまな店の店員になって、少しずつ商売のコツを身につけていきました。そして18歳のとき、借金をして友人と小さな紡績工場を始め、1790年には独立して500人も働く紡績工場の支配人となりました。

オウエンは、1799年にグラスゴーの工場を経営していた人の娘と結婚し、翌年スコットランドのニュー・ラナークに建設した2000人もの労働者を使う紡績工場の共同経営者となりました。低所得の労働者たちの厳しい実情を知っていたオウエンは、自分の思うままに経営できることで、持論にもとづき、工場を清潔にしたり、労働者に快適な住宅を提供したり、働くことに喜びもてるように指導していきました。幼少の子どもの工場労働をやめさせたばかりか、幼児の学校を工場に併設して、幼稚園の生みの親といわれるフレーベルよりも先に、就学前教育を実践し、教育方法にも工夫をこらしました。

こうして28年ものあいだ、オウエンは、労働者の生活改善につとめ、工場と機械をどうすればよりよいものにできるかに力をそそぎ続けました。この理想的ともいえるオウエンの努力は功を奏し、生産も向上して、工場地獄だったイギリスじゅうに、さらにヨーロッパじゅうにその評判が広まって、工場見学をする人たちが、1か月に千人も越えることもあったといわれます。

しかし、ニュー・ラナークだけでなくイギリスじゅうの労働者を救うことの大切さを意識したオウエンは、1815年ごろから、紡績工場では10歳以下の子どもは働かせないこと、1日10時間以上働かせないこと、工場監督官をおくことなどを決めた「工場法」を、政府や議会に働きかけはじめました。その努力は報いられ、1819年にイギリス議会は、世界に先がけてこの法律を通したのです。

1825年にオウエンはアメリカに渡り、インディアナ州に土地を買って「ニュー・ハーモニー平等村」を作り、生産協同組合の方法によって自ら信じる社会主義の実現をめざしましたが、これは失敗に終わってしまいました。

オウエンはイギリスに戻りましたが、工場からも手を引き、協同組合や労働組合の力が強くなるための数々のアイディアをだすもののうまくゆきません。晩年は宗教に心のよりどころを求めるようになり、貧乏のうちに亡くなったのでした。

なお、オウエンをはじめフーリエやシモンらが唱えた「空想的(ユートピア)社会主義」は、マルクスとエンゲルスが主張する社会主義を「科学的社会主義」と呼ぶのに対比して名づけられたものです。


「11月17日にあった主なできごと」

1869年 スエズ運河開通…フランスの建設者レセップスは、さまざまな苦難の末に、地中海と紅海を結びインド洋へとつながる海の交通の要・スエズ運河を10年がかりで建設し、開通させました。運輸労力と費用の軽減は驚くほどで、政治的・軍事的重要性のために各国の争奪戦となり、当初フランスが中心だった同運河は、1875年からイギリスが支配し、1956年にエジプトが国有化しました。

1922年 アインシュタイン来日…相対性理論で名高いドイツの物理学者アインシュタインが来日し、約1か月間の滞在中、東京、大阪、仙台、福岡などで講演を行いました。ノーベル賞を受賞したばかりの時で、会場はどこも学者や学生を中心に満席でした。

投稿日:2010年11月17日(水) 09:22

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)