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『ウィルヘルム・テル』 のシラー

今日11月10日は、ゲーテと並びドイツ古典主義の代表といわれる詩人で劇作家のシラーが、1759年に生まれた日です。

フリードリッヒ・シラーは、ドイツ西南部にあるベルテンベルク公国の小さな田舎町マールバッハに、軍医の子として生まれました。当時のドイツは、長い戦争のあとで、国土は荒れ、いくつもの小国に分裂して、それぞれの領主が勝手に政治を行なっていた時代でした。

シラーは、幼少の頃から頭が良く、宗教家をめざしてラテン語学校に入学しました。14歳で優秀な成績で卒業したところ、領主のオイゲン公から、強制的に軍人養成学校に入学させられてしまいました。ここは牢獄のような自由のない学校で、シラーの反抗精神は燃えあがり、文学をめざすようになりました。卒業後、厳しい学校生活のかたわらに書いた戯曲『群盗』を出版し、マンハイム劇場での上演は大成功をおさめました。しかし、オイゲン公をモデルに、悪政と暴君ぶりを描いたこの作品は、公の怒りを買い、その後に発表した詩集とともに、作品を書くことをさしとめられてしまいました。

1782年シラーは、故郷を飛び出し、貧しいさすらいの旅に出ました。いくつかの戯曲を書き、成功をおさめたものの、著作権が保護されていなかった当時の報酬はわずかなもので、満足に食事にありつけないほどでした。ベートーべンの交響曲第9番「合唱付き」の有名な原詞『歓喜によせて』もこの苦しい時代の作品でした。

1789年、シラーはイエナ大学の教授になり、『三十年戦争史』などを著し、のちにゲーテと共に、ロマン主義文学に対抗する古典主義文学の黄金時代を築きあげました。『バレンシュタイン』『オルレアンの少女』『メッシナの花嫁』などの戯曲を矢つぎばやに発表し、特に『ウィルヘルム・テル』は、文字通りドイツの劇界をわきたたせました。「われら同胞は、ひとつの国になろう。どんな災難にも、危機にもわかれずに!」という叫びは、ドイツ統一をめざす国民の自覚を、はっきりと目覚めさせるものとなりました。

シラーは、1805年5月、46歳の若さで亡くなりました。ゲーテがめぐまれた一生を送ったのに対し、貧乏と病気の苦しみにさいなまれたシラーの一生でした。

なお、代表作の戯曲『ウィルヘルム・テル』前半のあらすじは、次の通りです。

テルという弓の上手な猟師がいました。ある日息子を連れて草原を歩いていると、竿の先に帽子がかかっていました。それは代官のゲスラーが、農民たちに頭を下げさせようと、わざとやっておいたものでした。テル親子がだまって通り過ぎようとすると、番兵に捕まってしまいました。そこへ代官が現われ、テルの弓の腕前を知っていた代官は、テルの息子の頭にリンゴを乗せ、それを射るようにテルに命令したのでした。テルの腕前は確かでした。見事にリンゴを射抜きました。しかし代官は、テルが矢を放つ前に、もう1本の矢をぬいておいたのをとがめました。するとテルは「もしも、矢が子どもに当たったら、2の矢であなたを射抜く積りだった」と答えたのです。代官は怒り、テルをしばって舟に乗せ、湖に流しました……。


「11月10日にあった主なできごと」

1483年 ルター誕生…ドイツの宗教家で、免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めた ルター が、生まれた日です。

1619年 デカルトの決意…近代西洋哲学のもとを築き、哲学の父とよばれて歴史に名をのこした デカルト が、「コギト・エゴト・スム」(われ思う、ゆえにわれあり)という独自の哲学の基本を決意した日です。 

1871年 スタンリーがリビングストンを発見…アメリカの新聞記者スタンリーは、行方不明になっていた探検家 リビングストン を追い、アフリカ奥地で236日ぶりに発見しました。

1873年 内務省の設置…明治政府の実質上の中枢である内務省が設置され、大久保利通 が初代内務卿に就任。警察、地方行政など対民衆行政のすべてを掌握することになりました。

1928年 昭和天皇即位…京都御所で、昭和天皇の即位式が行なわれました。27歳で即位した天皇は、60年以上の在位期間に、太平洋戦争敗戦、玉音放送、人間宣言など、激動の時代を歩むことになりました。

投稿日:2010年11月10日(水) 07:12

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)