今日11月8日は、長編小説『風と共に去りぬ』を著したアメリカの女流作家ミッチェルが、1900年に生まれた日です。
マーガレット・ミッチェルは、アメリカ南部のジョージア州アトランタに生まれました。父はアトランタ歴史協会の会長を務める弁護士でした。子どものころから「南北戦争」の話を父から聞き、自分でも読書が好きで、戦争関連の本をたくさん読みました。また、母方の親類が南北戦争を生き抜いたことを知り、戦争に関する疑問を聞きただし、南部連邦支持者が戦争に敗れて全財産を失ったことには、大きなショックを受けたようです。やがて、医者をめざしたマーガレットでしたが、母が亡くなったために大学を中退し、家事を手伝いました。
1922年にアトランタ・ジャーナル社に入社したマーガレットは、日曜版のコラム執筆者となりました。まもなく結婚しましたが、夫が酒の密売人であることがわかって離婚、前夫の友人だったジョン・マーシュと再婚しました。ところが、入社3年後にくるぶしを骨折し、退社を余儀なくされたばかりか、寝たきり生活を送ることになってしまいました。
マーガレットの気ばらしにと、マーシュは図書館から歴史書を借りてくる日々がつづきました。そのうち、南北戦争についての豊富な知識を知って、マーシュは彼女に執筆を勧めました。こうしてマーシュのバックアップも手伝って、マーガレットは療養中の楽しみを、創作することに見出したのです。
マーガレットは、大長編小説をタイプライターに打ちこんでいきましたが、出版する意志はありませんでした。新聞記者時代に知り合ったプロの作家たちの能力の高さを知っていたからです。1929年にはくるぶしも完治し、小説もほぼ完成していましたが、もはや創作活動への意欲を失っていました。
これが、偶然のきっかけから、1936年6月にマクミラン社から出版されました。その前年、南部地域で有望な作家を探していたマクミラン社の編集者ハワード・ラザムが、マーガレットと共通の友人の紹介で、アトランタを案内してもらうために彼女を訪れたのでした。すっかりマーガレットにひかれたラザムは、これまでに何か書いたものはないかとたずねました。後日、この話を友人にしたところ「あなたが本を書くなんてあり得ないわよね」と笑われたのに腹を立てたマーガレットは、自宅に帰ると古い原稿を引っ張り出して、ラザムに送ったのがきっかけでした。原稿を読んだラザムは、粗削りな部分を手直しすれば大ベストセラーになる作品だと確信し、マーガレットをはげまし、未完成な部分を書き足して1年がかりで完成させたのでした。
『風と共に去りぬ』は、発売と同時に大反響となり、年末までにアメリカだけで100万部を越える大ベストセラーとなりました。翌年には、ピューリッツァー賞を受賞しています。
「アトランタ郊外の大農園に生れたスカーレット・オハラは16歳、輝くばかりの美貌と火のように激しい気性の持主。スカーレットは、青年たちの憧れの的でしたが、美青年アシュレーに恋をしていました。ところが、アシュレーは、いとこのメラニーと婚約していたのです。ある夜のパーティで、ふたりの婚約を知ったスカーレットは、かんしゃくを起こし、アシュレー家のつぼを投げつけて壊したばかりか、アシュレーへのつらあてに、メラニーの兄チャールズと強引に結婚するのです……」
こうして始まる『風と共に去りぬ』は、虚栄心と勝ち気が織りなすヒロイン スカーレット・オハラの半生を、南北戦争下のアトランタ市を背景に、彼女を取り巻く人々ともども壮大に生き生きと描き、世界じゅうの読者を魅了しました。以来この作品は、全世界で2000万部を超えたと推定されています。
しかし1949年8月、マーガレットは夫マーシュとアトランタの劇場に行く途中、タクシー運転手にはねられて亡くなってしまいました。『風と共に去りぬ』の続編を構想してはいたものの、書いた作品は『風と共に去りぬ』だけに終わってしまいました。
「11月8日にあった主なできごと」
1895年 エックス線発見…ドイツの物理学者 レントゲン が、実験中になぞの放射線を発見し「]線」と名づけました。]線に感光するフィルムを使って撮影した写真(レントゲン写真)は、肺など身体の内部をうつして診察に役立たれているほか、キュリー 夫妻のラジウムの発見など、放射能の研究にも役立たれています。