今日11月5日は、20世紀前半に花開いた「エコール・ド・パリ」(パリ派)の代表的画家のひとりといわれるユトリロが、1955年に亡くなった日です。
モーリス・ユトリロは、1883年、私生児としてパリのモンマルトルに生まれました。母は、のちに優れた画家となるシュザンヌ・バラドン16歳の時の子で、バラドンは当時、ルノアール、ドガ、ロートレックらのモデルをつとめていました。父はアルコール中毒症(アル中)の画家といわれていますが、モーリスを認知しなかったために、祖母の手で育てられました。
1891年、モーリス8歳のとき、スペイン人の美術評論家ミゲル・ユトリロが戸籍上の養父となってくれたため、ユトリロ姓を名のりました。その後、母とともに住むようになり、中学校に学びました。しかし、父親のアル中が遺伝したのか、その頃から酒に魅入られ、17、8歳の頃には、飲酒の悪癖にはまりこみ、生涯苦しみ続けたのでした。銀行などに勤めても長続きせず、1901年アル中による衰弱のため療養所に送りこまれました。
1902年、医者の忠告に従って、飲酒から関心をそらせようと母は、ユトリロにむりやり絵筆をとらせました。気乗りのしなかったユトリロでしたが、やがて独特の才能を発揮しだして、パリの街を、特に当時の画学生たちが集うモンマルトルの古い家々をあくことなく描きはじめました。1905年ころから作品が認められるようになり、以後数年間に600点以上の油絵を描いたといわれています。
特に1907年頃から、いわゆる「白の時代」がはじまり、白壁やレンガの家を表現にするために、石膏や砂やしっくいを絵の具にまぜて、古い壁の感触を描き出す工夫をこらしはじめました。
ユトリロは、どの流派にも、どのような画家からもほとんど影響を受けず、本能にしたがって、自分が見て感じたものを表現しました。街路樹、陰うつな場末の街、人けのない通り、閉ざされたホテルや教会堂など、パリに住んでいる人なら誰もが見なれた風景でも、強い色調から弱い色調への微妙な変化を描き分けました。それは、花の都パリ、はなやかなファッションの街パリとは異なる、古い歴史を持ち、ときには薄汚れたうら寂しいパリ、しかし世界の画家たちにとっては「心の故郷」ともいえるパリの姿でした。
1914年ごろまで続いたこの「白の時代」こそユトリロの全盛期でした。飲酒癖は相変わらずで、刑務所に留置されたり、入退院をくりかえす生活は20年も続きましたが、ユトリロの傑作のほとんどは、この時期に生まれています。
第1次世界大戦後は、母とともに何度か作品展を開催し、生活も好転していきました。画風は「色彩の時代」といわるように、さまざまな色彩がちりばめられ、緑が強調されるようになっていきました。しかし、それはまたユトリロらしさの衰退のはじまりでもありました。1935年にはコレクターの未亡人と結婚するものの、晩年は廃人同様となり、作品にはかつての緊張や生気はみられないまま、亡くなったのでした。
「11月5日にあった主なできごと」
1688年 名誉革命起こる…国王ジェームズ2世に反発したイギリス議会はクーデターを起こし、次の国王としてウイリアム3世(オランダ総督オレンジ公)とメアリー2世夫妻を招き、夫妻は軍隊を率いてイギリスへ上陸しました。ジェームズ2世はフランスに亡命し、流血のないまま新王が即位したため、「名誉革命」といわれています。
1922年 ツタンカーメン王の墓発見…イギリスの考古学者カーターが、古代エジプト18王朝(BC1340頃)18歳で亡くなったツタンカーメン王の墓を発見しました。3000年以上の歴史を経てもほとんど盗掘を受けておらず、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめ、副葬品の数々をほぼ完全な形で出土しました。そのほとんどは、「カイロ博物館」に展示されています。