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「インゲン豆」 と隠元

今日11月4日は、江戸時代の初期に禅宗の流れをくむ「日本黄檗(おうばく)宗」を開いた、中国の僧 隠元が、1592年に生まれた日です。

隠元隆g(いんげんりゅうき)は「民」の時代に中国福建省で生まれました。29歳のとき、黄檗山に登って禅の修業を積み、鎌倉時代に 栄西 が日本に伝えた臨済宗を究め、35歳で悟りを開きました。

江戸時代のはじめ、長崎に住んでいた中国人は、自国からひんぱんに禅僧を招いていました。隠元もそんな一人で、1654年に長崎興福寺の僧の招きで日本にやってきたのでした。そして、長崎の興福寺以外の禅寺、さらに摂津国(現・大阪)の普門寺に迎えられました。

威儀をたもちながら、念仏禅をとなえる教えに、多くの日本人は感銘したのでしょう。やや先に渡来した超元と共に、当時の禅宗界に衝撃を与え、臨済宗、曹洞宗の復興運動にも大きな貢献をしたと伝えられています。

幕府にも重んじられ、4代将軍徳川家綱にも面会し、京都では後水尾天皇や公家からも信望をえました。やがて、幕府から宇治に寺を建てることが許され、1562年に黄檗山万福寺を建立しました。翌年、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、日本の民衆に初めての授戒を行ないました。これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となりましたが、「日本黄檗宗」は、のちに弟子たちがとなえるようになったものです。

隠元は、1673年に後水尾天皇から普照国師の号を贈られました。しかし、その翌日に死去しました。『隠元禅師語録』(16巻)『普照国師広録』(30巻)などの著書を遺しています。

なお、隠元が来日した際に日本に持ちこんだため、その名がついたといわれる「インゲン豆」は、南アメリカが原産で、そこから北アメリカに渡り、ヨーロッパに伝わったのちに、ユーラシア大陸を横断して中国に伝わっていたものでした。(隠元が持ちこんだのは「フジマメ」という説もあります)さらに隠元は、日本に「煎茶道」(抹茶を用いる「茶道」に対し、急須等を用いて煎茶や玉露などの茶葉に湯を注いで飲む)を広めた人としても知られています。


「11月4日にあった主なできごと」

1847年 メンデルスゾーン死去…世界3大バイオリン協奏曲(コンチェルト)の一つと賞賛される「バイオリン協奏曲」をはじめ、「真夏の夜の夢」「フィンガルの洞窟」などを作曲したことで知られる メンデルスゾーン が亡くなりました。

1921年 原敬首相刺殺される…平民宰相といわれた 原敬 首相が、東京駅で19歳の鉄道員に刺殺され、65歳の生涯を終えました。当時、原内閣の社会主義運動への弾圧、普通選挙法への反対、シベリア出兵の強硬など、資本家の利益につながる政治腐敗に対し、民衆の非難が高まっていました。

1946年 ユネスコの成立…国際連合には、総会、安全保障理事会などさまざまな仕事がありますが、それ以外に経済、社会、文化などを扱う専門機関があります。ユネスコもその一つで、正式には「国際連合教育科学文化連合」といい、それぞれの英文の頭文字だけをとってUNESCO (ユネスコ)と呼んでいます。この日「ユネスコ憲章」が発効し、正式に成立しました。ユネスコの役割は、異なる文化や思想を持つ国々同士のつながりを理解し、平和と安全をはかろうとするものです。日本は1951年に加盟、学校給食がはじめられたのはユネスコの力によるものでした。よく知られている「世界遺産」も、1972年のユネスコ総会で採択された条約で、世界遺産リストに登録された遺跡、景観、自然など、人類が共有すべき普遍的価値をもつ不動産をさすものです。

投稿日:2010年11月04日(木) 07:20

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)