今日10月28日は、19世紀ロシアの代表的小説家の一人で、25編の短編からなる『猟人日記』を著したツルゲーネフが、1818年に生まれた日です。
イワン・ツルゲーネフは、モスクワの南にあるオリョールの地主の次男に生まれました。1000人もの「農奴」がいる豊かな貴族で、父は騎兵大佐、母は広大な領地の女主人でした。当時のロシアには、「農奴制」というのがあり、貴族や地主が、土地を耕すだけの農民(農奴)を持ち、農奴は家畜のように売り買いされる存在でした。
両親ともに傲慢でわがままな性格だったために、ツルゲーネフは暗く不幸せな少年時代をすごしました。15歳でモスクワ大学教育学部に入学したときに父が亡くなり、母は領内の農奴たちを、以前にもまして専制的に圧迫していきました。幼いころから、そんな農奴制の悲惨さを見てきたツルゲーネフは、これをなくすことを生涯の願いとするようになりました。
ペテルブルク大学を経て、1838年から1841年までベルリン大学で哲学や古典語を学ぶうち、ヨーロッパの思想をとり入れることの大切さを知るようになり、たまたま、夫と子のあるオペラ歌手に一目ぼれして、彼女を追ってパリに移り住みました。それ以後のツルゲーネフは、ヨーロッパとロシアを往復する生活をずっと続けました。
作家をめざしたツルゲーネフが、1847年に『猟人日記』シリーズの第1作「ホーリとカリーヌイチ」を雑誌に発表するや、世間の人たちはタブーとなっていた農奴制批判の内容に注目しました。そして1851年に全25編が完成して出版されると、農奴制廃止を願う人々から大喝采を受けたのでした。のちに、農奴解放の勅令を出したアレクサンドル2世は、当時皇太子でしたが、この作品を読んで農奴解放を決意したといっています。(農奴制が解放されたのは1861年、リンカーンによる奴隷解放の2年前のことです)
『猟人日記』は、一人の狩猟家が農奴の悲惨な暮らしぶりを書きとめる体裁をとった短編25編からなり、そのうちの一編『オオカミ』は、こんな内容です。
ある晩私は、雷雨にあい、やっとの思いで大きな森にたどりつきました。するとふいに人影が現れ「おれは森の番人、あだ名はオオカミだ」といいます。私は、この番人が農奴たちから、森にある枯れ枝1本も持っていかせない上、力がものすごくてはむかうことも買収することもできないと、恐れられているのを知っていました。夕立がやんで、森の出口まで案内してくれたオオカミは、ふいに、しげみの中にかくれました。風が静まると、斧の音が聞こえます。しばらくすると、オオカミの声が聞こえ、つかみあいが始まりました。私がかけつけると、オオカミはどろぼうを組みしいて、しばりあげていました。どろぼうは、ボロを着たしわだらけの農民で、しきりにあやまりました。「お屋敷の番頭がいじめるもんだから…丸はだかにされちゃったんだ」「だからといって、盗みをする法はない」「それじゃ、連れてきた馬だけは放してくれ」「おれだって、使われている身だからだめだ」。観念した男は開き直り、「馬をとられたら、にっちもさっちもいかねぇんだ。たたっ斬れ!」私は、男を助けようとしました。「かまわねぇでください、だんな」。オオカミはそういうと、しばった帯をパラリとといて、「さぁ、馬を連れて、とっととうせやがれ!」と、どなったのでした……。
ツルゲーネフは『猟人日記』以外に、19世紀のロシア小説の最高傑作の一つに挙げられている『父と子』(貴族主義的な父の世代と、当時のロシア社会に批判的な子の世代との対立を描いた力作)など、たくさんの作品を遺し、1883年パリ郊外で亡くなりました。一生独身ですごした孤独な生涯でした。
日本ではいち早く二葉亭四迷によって翻訳・紹介され、特に 国木田独歩 や田山花袋らに大きな影響を与えました。なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『猟人日記』の一編『あいびき』(二葉亭四迷訳)を読むことが出来ます。
「10月28日にあった主なできごと」
1860年 嘉納治五郎誕生…講道館柔道の創始者であり、日本のオリンピック初参加に尽力するなど、スポーツの海外への道を開いた嘉納治五郎 が生まれました。
1886年 石川啄木誕生…歌集『一握の砂』『悲しき玩具』などを著し、民衆歌人、天才詩人といわれた 石川啄木 が生まれました。
1886年 自由の女神像…アメリカの独立100年を記念して、フランスから贈られた「自由の女神像」の除幕式がおこなわれました。ニューヨーク港ベッドロッド島に佇む46mの巨像は、アメリカのシンボルとなっています。