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『三太郎の日記』 と阿部次郎

今日10月20日は、『三太郎の日記』を著した大正・昭和期の哲学者、評論家、教育者の阿部次郎が、1959年に亡くなった日です。

阿部次郎は、1883年、山形県松山町(現・酒田市)に、8人兄弟の次男として生まれました。父親は小学校の教師で、兄弟のうち次郎を含む4人がのちに大学教師となっています。

次郎は、第一高等学校から東京帝国大学という秀才コースを歩みますが、山形中学の時代に卒業を目前にしながら、校長排斥運動の首謀者として放校を受けるほど正義感の強い人物で、いわゆる点取り虫ではありませんでした。

東京帝国大学時代は、ケーベル博士や 夏目漱石 に師事し、同大哲学科を卒業。卒業後も漱石の弟子として、和辻哲郎らと親交を深めながら文芸活動に入りました。

やがて代表作となる『三太郎の日記』を1914年に発表し、翌15年に『続・三太郎の日記』を出版しました。この著書は、大正時代に高まった教養主義の代表作として、学生や青年たちの支持を得て、近代的自我覚醒のための必読書となり、「青春のバイブル」とまでもてはやされました。

1917年、次郎の高校時代の同級生だった岩波茂雄が雑誌『思潮』(現『思想』)を創刊すると、その主幹にむかえられたほか、『哲学叢書』を企画したことは高く評価されています。

慶応大学、日本女子大学の講師を経て1922年に、文部省在外研究員としてのヨーロッパへ留学。帰国後、東北大学の教授となって、美学や倫理学を、退官する1945年まで教えました。

阿部次郎の名が再び注目されるようになったのは、『三太郎の日記』が戦後に復刊されたことからでした。敗戦のショックで憔悴し、荒廃しきって自信を失った人々は、心の寄りどころを求めてこの本に殺到したのです。

「俺は偉くも強くもない……、このちっぽけな、この弱虫の俺を、偉い者強い者の中におくのは、これらの者に対する観念の純粋と、態度の敬虔と──したがって、憧憬の真実とを傷つける恐ろしい冒涜である……俺は偉くもなく強くもない事実を恥とする。ただし、決してこの自覚を恥としない……」

『三太郎の日記』は、弱者の哲学といわれます。その意味は、自ら自分を弱者と認めながら、その弱さを知るがゆえに、弱さを知らないニセの弱者に優越するという意味です。哲学者である著者が、自分の青春時代を主人公「三太郎」になぞらえて、自分を内省し、自分とは何かを探っていくところに、若者たちが共感したのでしょう。

「愛とは他から奪うことではなくて、自己を他に与えることである」「生きるための職業は、魂の生活と一致するものを選ぶことを第一とする」「嫉妬とはなんであるか? それは他人の価値に対する憎悪を伴う羨望である」など、阿部次郎の言葉には、含蓄ある名言がちりばめられています。


「10月20日にあった主なできごと」

1180年 富士川の合戦…源頼朝率いる源氏と平氏軍が駿河の富士川で合戦を行いました。この戦いで、平氏軍は水鳥が飛びったった水音を夜襲と勘違いして敗走しました。

1850年 ジョセフ・ヒコ遭難…14歳だった浜田彦蔵は遠州灘で遭難し、50余日後にアメリカ船にすくわれて渡米、ジョセフ・ヒコを名乗りました。1859年に帰国して米領事館通訳として開国後の外交に尽力。幕末の漂流民としてジョン万次郎(中浜万次郎)と共に、よく知られています。

1856年 二宮尊徳死去…幼い頃に両親を失いながらも刻苦して小田原藩士となり、各地の農村の復興や改革につくした江戸後期の農政家・二宮尊徳 が亡くなりました。

1879年 河上肇誕生…『貧乏物語』『資本論入門』『自叙伝』などの著作で知られ、日本におけるマルクス主義の考えを推し進めた経済学者 河上肇 が生まれました。

1967年 吉田茂死去…太平洋戦争敗戦の翌年に首相に就任、以来5回にわたって首相をつとめ、親米政策を推進して日米講和条約、日米安保条約を締結した 吉田茂 が亡くなりました。

投稿日:2010年10月20日(水) 07:20

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)