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世界の天文学者・木村栄

今日9月10日は、日本の天文観察技術の高さを世界に知らせた天文学者・木村栄(きむら ひさし)が、1870年に生まれた日です。

地球は、北極と南極をむすぶ軸を中心にして、自転しています。しかし、その地軸は、永久不変のものではありません。長い歳月のあいだには、少しずつ動いています。木村栄は、この地軸のずれを正確に調べるために緯度を観測し、その観測結果の計算に新しい方法を発見しました。

石川県金沢市で生まれた栄は、漢学の塾を開いていたおじの家へ、幼いうちに養子にだされ、少年時代はきびしく育てられました。早くから学問を習い、8歳をすぎると、すでに父のかわりに、子どもたちに漢学やそろばんを教えたということです。

19歳で上京すると、帝国大学(いまの東京大学)の星学科に入学して天文学を学び、卒業後はさらに大学院へ進んで、緯度観測や地球物理学の研究を深めていきました。

1898年、ドイツで開かれた万国測地学協会の総会で、地軸の動きを調べるための緯度観測所を、世界各地におくことが決まり、日本の岩手県水沢にも、観測所がつくられました。その所長にむかえられたのが29歳の栄でした。

所長のしごとについた栄は、若い人たちに「研究にかかったら、1日24時間じゅう、考えつづけるようでなければだめだ」と説きながら、おどろくほど熱心に、毎日、同じ星の位置の観測をつづけました。そして、その観測結果から緯度の変化を割りだして、ドイツの中央局へ報告するのです。

ところが、やがて中央局から、世界各地での観測結果のなかで、栄の報告したものはおかしいと、発表されてしまいました。もし、そうだったら、栄がはずかしいだけではなく、日本の科学の恥です。栄は、器械や観測方法や計算のしかたを調べなおしました。でも、どこにも故障もまちがいもありません。どこに原因があるのだろう……。栄は昼も夜も考えつづけました。

そんな、ある日のことです。栄は、ふと、地球の回転の変化に疑問をいだき、それまでの緯度計算の式に、もう1つ項をふやしてみることを考えつきました。そして計算しなおしてみると、水沢でだした数値と、世界各地の観測所でだした数値が一致するではありませんか。だれも気づかなかった項の発見です。

1902年に、これをまとめて発表した論文が、世界の天文学者を驚かせました。栄は、たちまち世界の天文学者となり、その新しい項は木村項(Z項)と名づけられました。

栄は、20年後に、中央局がドイツから水沢に移されると、その局長をつとめ、1943年に73歳で亡くなりました。緯度観測につくした人として、世界の科学史に名をとどめています。
 

「9月10日にあった主なできごと」

1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の 武田信玄 と、越後(新潟)の 上杉謙信 の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。今日の4回目の戦いがもっとも激しいものだったようで、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。

1951年 「羅生門」グランプリ…黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞しました。

1960年 カラーテレビの本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。

投稿日:2010年09月10日(金) 08:38

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)