今日9月9日は、「ムーランルージュ」のポスターなど、パリのモンマルトルを中心に活躍したロートレックが、1901年に亡くなった日です。
トゥルーズ・ロートレックは、1864年、名門の伯爵家夫妻の長男として、フランス南西部のアルビに生まれました。幼少の頃のロートレックは、愛くるしさから「小さな宝石」と呼ばれて、母はもちろんまわりの人たちに可愛がられて育ちました。
両親が上流社会にありがちな近親婚だったためか、遺伝性の骨が弱いという体質を受けついでいました。そのため、13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨と2度にわたるちょっとした転倒事故で、両足を骨折してしまいました。上半身は正常に発育したのに、ステッキにたよって歩かざるをえなくなり、両足の発育が停止して身長は150cm以上には成長しませんでした。
ロートレックにとって、精神的なはげみになったのは叔父のシャルルでした。シャルルはロートレックの絵の才能を見抜いていました。デッサンの名手だったシャルルは、動物の描きかたの手ほどきするうち、ロートレックは、走りまわる馬などを上手にデッサンするようになり、それが楽しみになりました。また、学校の成績もよく、教師や友人たちを漫画のように描いては、みんなを笑わせる陽気さも持ち合わせていました。
1882年、母といっしょにパリに移りました。そして、肖像画や歴史画を得意とするレオン・ボンナの画塾で学びました。まもなく画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの有名な画塾に移り、以後は晩年までこの地ですごすようになります。
2年もするとロートレックは、伝統的な絵画とは別の絵画をめざすようになりました。彼ののびやかなデッサンは、師をはるかに越える域に達していたのです。そして、モンマルトルの夜の街に毎晩のように出かけては、そこで働く女性たちを描き続けるのでした。
自身が障害者として差別を受けていたこともあって、ロートレックは、女給、踊り子、娼婦たちに共感しました。ナイトクラブ「ムーランルージュ(赤い風車)」をはじめ、ダンスホール、酒場などに入りびたり、退廃的な生活を送りました。そして、そんな女性たちを愛情をこめて描きつづけるのでした。
1891年に「ムーランルージュ」の人気ダンサーのポスターが認められると、ポスター画家としての地位を確立。ロートレックの人気は急上昇し、1893年にはパリで初個展を開くなど、同時期に活躍したミューシャと人気を二分しました。
やがて、若い頃からの飲酒に加え、アブサン(ニガヨモギなどの薬草の入った高純度のリキュール)を好んだことから、1899年に強い中毒になって病院に強制入院しました。いったん回復するものの、1901年8月、死期の近いことを自覚したロートレックはパリを発ち、けものが巣に帰るように、故郷に帰っていた母のもとで死去したのでした。37歳の若さでした。
「9月9日にあった主なできごと」
686年 天武天皇死去…645年におこった大化改新の事業を完成させ、革新の気風あふれた白鳳文化を生んだ 天武天皇 が亡くなりました。
1828年 トルストイ誕生…『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの長編小説や随想録『人生読本』で名高いロシアの作家 トルストイ が生まれました。
1948年 「朝鮮民主主義人民共和国」成立…同年8月に成立した「大韓民国」(韓国)に対抗して、「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)が成立し、金日成を首相に選びました。