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日本人初のノーベル賞・湯川秀樹

今日9月8日は、「中間子」という電子のほぼ300倍もの質量をもつ素粒子のあることを、理論をもって証明したことで、1949年日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した 湯川秀樹が、1981年に亡くなった日です。

湯川秀樹は、1907年、有名な地理学者小川琢治(たくじ)の3男として、東京麻布に生まれました。のちに大阪の医師である湯川家に婿入りしたため、湯川姓となりました。

幼いころから優秀で、特に数学が得意だったようです。そのため、高校時代は数学者をめざしましたが、ある数学試験で不合格になってしまいました。なぜなのかを確かめたところ、先生の講義の通りに証明しなかったためだとわかり、数学への情熱がさめてしまいました。それからは、自分の頭脳で解決する学問をめざし、京都大学では理論物理学を専攻しました。

大学を卒業すると、同大学の講師となり、1933年に大阪大学講師になりました。そして1934年27歳のとき、原子核の内部に「中間子」が存在することを予言する論文を発表しました。物質を作っている基本の単位は「原子」で、その中心にある原子核の中には「陽子」と「中性子」という粒子があることはわかっていました。でも、この2種類の粒子がなぜバラバラに離れていないのかはまだわかっていませんでした。湯川は、それを結びつけているのが、「中間子」であると考えたのでした。

やがて1937年にアメリカの物理学者アンダーソンによって「中間子」の一部が発見され、その性質が解明されると、いちやく湯川の名が注目され、中間子理論の開拓者とよばれるようになりました。この結果、湯川は1940年に京都大学教授になり、1943年には文化勲章も受章しました。

さらに1947年にイギリスで中間子の全貌が発見されたことで、湯川は1949年にノーベル物理学賞を受賞しました。この快挙のニュースは、敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えました。

その後湯川は、世界的な物理学者アインシュタインや、哲学者ラッセルが提唱したパグウォッシュ平和会議の一員となって、核兵器の廃絶と国際平和の創造につとめる運動に積極的に参加したことはよく知られています。

なお、湯川の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第36巻 「湯川秀樹」をぜひご覧ください。


「9月8日にあった主なできごと」

1841年 ドボルザーク誕生…「スラブ舞曲」や「新世界より」などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが生まれました。

1868年 元号「明治」…年号をこれまでの「慶応」(4年)から「明治」(元年)と改めました。同時に、今後は1天皇は1年号とする「一世一元の制」を定めました。

1951年 サンフランシスコ講和条約締結…第2次世界大戦で、無条件降伏をして連合国の占領下におかれていた日本国民は、1日も早い独立を願っていました。1950年に朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本を独立させて資本主義の仲間入りをさせようと、対日講和の早期実現を決意しました。そしてこの日、日本の全権大使吉田茂首相は、サンフランシスコで戦争に関連した48か国と講和条約に調印し、6年8か月にわたる占領が終わり、独立を回復しました。しかしこの時、アメリカとの間に「安全保障条約」を結んだことで、日本国内に700か所以上もの米軍基地がおかれるなど、本当の意味での独立国にはなりきれず、さまざまな波紋を残すことになります。

投稿日:2010年09月08日(水) 08:00

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)