今日9月6日は、スペイン王と西回りでアジアの香辛料を入手する契約を結んだマゼラン隊の一せきが、1522年に人類初の世界一周をはたした日です。
ポルトガルの下級貴族の家に生まれたマゼランは、25歳のころ、ポルトガル軍の艦隊に入って初の航海に出ました。その後、インド洋やマラッカの海を8年間も航海したことで、海や地理についてはだれにも負けない知識を得ました。さらにマゼランは、いざというときの判断がするどく、人をまとめる力がすぐれていました。
航海者としての自信のついたマゼランは、ポルトガル王にモルッカ諸島(インドネシア周辺の島じま)への西回り航路開拓計画を話しました。しかし受け入れてもらえなかったため、スペイン王カルロス1世に面会し、同様の計画を熱心に語りました。カルロス1世は心を動かされ、マゼランと契約を結び、艦隊の長に任命したのでした。
こうして1519年9月、5せきの船隊が265人の男たちを乗せて、スペインのサンルカル港をはなやかに出航しました。マゼラン艦長の乗るトリニダット号を先頭にサン・アントニオ号、コンセプション号、ビクトリア号、サン・チャゴ号とつづきます。
マゼラン隊は、それから1年もかけて南アメリカの大西洋岸を南に南に、手探りのように船を進めました。そして1年1か月後に、黒ずんだ水が大きく開いたぶきみな入江を見つけました。これが南アメリカ大陸南端とフェルゴ島のせまい海峡(マゼラン海峡)でした。水路はまがりくねり、潮流が早く、水中には岩がかくれています。20日近くもの大変な苦労の末、この海峡をのりきりました。
こうして南太平洋に到達しましたが、太平洋はどこまで行っても、つきるところがありません。すぐに見えてくるだろうと思われた島じまの影は、行けども行けども現われてきません。100日以上もさまよいつづけ、グアム島をへてフィリピン諸島につきました。しかし喜びもつかの間、原住民との小ぜりあいのなかで、マゼランは殺されてしまいました。
一行は、新たなリーダーにエルカノを選び、モルッカ諸島で香辛料を手に入れた後、アフリカ南端の喜望峰を回って帰国したのでした。はじめ5せきだった船は、ビクトリア号だけになり、乗組員はわずか18人だけでした。
しかしこの世界周航の成功により、大西洋、インド洋、太平洋を結ぶ新たな交易ルートが開拓され、それまでの地中海交易に代わって、ヨーロッパを中心とした世界規模の大航海時代に突入するのです。
なお、マゼランの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第4巻 「マゼラン」をご覧ください。
「9月6日にあった主なできごと」
1858年 広重死去…「東海道五十三次」などの風景版画の傑作を描き、フランス印象派の画家やゴッホ、ホイッスラーらに大きな影響を与えた、浮世絵師・安藤(歌川)広重 が亡くなりました。
1998年 黒沢明死去…『羅生門』『生きる』『七人の侍』『赤ひげ』 など、数多くの名作映画を生み出し「世界のクロサワ」と讃えられた映画監督 黒沢明 が亡くなりました。