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『茶の本』 の岡倉天心

今日9月2日は、明治期に活躍した美術家、美術評論家で、茶道をとおして日本人の心や日本の文化を外国に紹介した名著『茶の本』を遺した岡倉天心が、1913年に亡くなった日です。明治時代の日本の文化や文明の発展に大きな功績を残した教育者でもありました。

岡倉天心は、江戸時代があと数年で終わろうとする1862年年末に、横浜に生まれ、本名を覚三といいました。天心は号です。

幼いころから英語、漢学を学び、やがて家族とともに東京へでた天心は、わずか11歳で東京外国語学校へ入学しました。そして、さらに東京開成学校から東京大学文学部へ進み、このとき、アメリカから日本へきていた哲学者フェノロサに、哲学や文学や美術を学んで、思想と知識を深めていきました。

18歳で東京大学を卒業すると文部省へ入り、音楽取調掛を2年つとめたのち、フェノロサとともに、古い神社や寺院の宝物調査をおこないました。22歳のときに、秘宝とされていた法隆寺夢殿の救世観音菩薩像を見る機会にめぐまれ、たいへん心をうたれました。

「東洋の美術は、世界で最もすばらしいものだ」

このように確信するようになった天心は、9か月ほど、アメリカやヨーロッパの美術を視察してきたのち、東京美術学校(いまの東京芸術大学)の創立にくわわり、28歳から校長として、学校の経営と学生の指導に力をつくすようになりました。

ところが、8年後には校長をしりぞかなければなりませんでした。天心の、自由な考えや強い個性に反対する人びとが現われ、学校を追われたのです。しかし、そのまま、日本の美術を見捨てるような天心ではありません。なおいっそう心をもやした天心は、美術学校で育てた横山大観、下村観山らをひきつれて、日本美術院をつくり、新たな美術運動を始めました。

39歳のときには、インドへ旅をして、インド独立をめざして戦う人びとに心をよせました。また、3年後には、招きを受けてアメリカのボストン美術館の顧問をつとめ、さらにその後も、何度も太平洋、大西洋を越えて、世界じゅうに、日本の美術のすぐれていることやアジアの解放を、となえつづけました。ニューヨークで、英文の『茶の本』を出版したのも、このころです。やはり英文で『東洋の理想』『日本の目覚め』なども著わしています。

自分の思想のために力の限り生きた天心は、1913年に50歳の生涯を終えました。味わい深い日本文化をたたえる思想は、いまも『茶の本』のなかに生き続けています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『茶の本』 を翻訳で読むことができます。


「9月2日にあった主なできごと」

BC31年 アクチュームの海戦…シーザーの暗殺後、ローマはオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。

1937年 クーベルタン死去…古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシアのアテネで近代オリンピックの開催を実現した「近代オリンピックの父」クーベルタン男爵が亡くなりました。

1945年 日本の降伏…東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符がうたれました。

1949年 アジア象はな子…タイから寄贈された象が日本に到着、戦争中に餓死させられた象「花子」の名前を継いで「はな子」と命名されました。はな子は、1950年に始まった上野動物園の「移動動物園」企画で全国や東京都下を巡回しましたが、武蔵野市や三鷹市ではな子の誘致運動が起こり、1954年に上野動物園から井の頭自然文化園に引っ越しました。63歳の今も健在です。

投稿日:2010年09月02日(木) 09:07

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)