今日9月1日は、大正ロマンを代表する数多くの美人画を遺した画家・詩人の竹久夢二が、1934年に亡くなった日です。
1884年、岡山県の酒造業を営む家に生まれた夢二(本名茂次郎)は、17歳で画家をめざして上京し、早稲田実業学校に通いながら絵ハガキを描いては、学校周辺の絵ハガキ店に売って生計をたてていました。
このころ、友人だった荒畑寒村の紹介で社会主義雑誌『直言』にコマ絵が掲載され、これが最初に印刷された夢二の絵でした。この後、童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描いたり、文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作したりしました。
1907年、岸たまきと結婚、彼女をモデルに「夢二式美人」という目の大きな、もの憂い表情を特長とする独自の女性を描くようになりました。たまきとは、貧乏暮らしに疲れて2年後に離婚したということですが、離婚後も同棲をくりかえしています。
まもなく読売新聞社に入社して時事スケッチを担当したりしましたが、1909年に『夢二画集−春の巻』を発刊したところ、ベストセラーとなり、挿絵画家として一本立ちできるようになりました。
1913年に絵入り小唄集『どんたく』を出版し、その中に『宵待草』「♪ まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬそうな」の三行詩が掲載されていました。
この詩に曲をつけさせてほしいという手紙が東京音楽学校の学生から夢二に届き、許可を与えると叙情的なメロディのついた楽譜が送られてきました。この曲は、1918年に出版され、演歌師によって全国に広まって大ヒットになりました。
その後の夢二は、独特の情趣ある絵や画集を多く発表したばかりか、書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけ、まさに日本の近代グラフィック・デザイナーの草分けのひとりともいえる活躍をしました。
しかし晩年は、欧米から帰国後、肺結核を悪化させて信州の病院で息をひきとりました。
「9月1日にあった主なできごと」
1923年 関東大震災…午前11時58分、関東地方一帯に震度7.9(激震)という大地震・関東大震災がおこりました。東京では130余か所で火災がおきて半分以上を焼き尽くし、関東全域で死者10万人以上、災害にあった人は400万人にものぼりました。不安が高まる中に「朝鮮人が暴動をおこした」「井戸に毒を流した」などというデマが乱れとび、罪のない朝鮮人や中国人数千人が殺されました。
1939年 第2次世界大戦…ヒトラーの率いるドイツ軍は、突然隣国のポーランドに侵攻しました。この行動に対し、イギリスとフランスは、兵を引き上げるように要求しましたがヒトラーはこれを受け入れず、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告、第2次世界大戦が勃発しました。戦争はヨーロッパ全体に広がり、やがて世界のほとんどを巻きこむ大戦争になっていきました。
1960年 防災の日…前年に襲来して、5000人を越える死者・行方不明者、39000人の負傷者という大災害をおこした伊勢湾台風と、関東大震災のおきた日にちなみ、防災意識を高めようと、政府はこの日を「防災の日」と定めました。
1983年 大韓航空機撃墜される…ニューヨーク発、バンクーバー経由ソウル行の大韓航空機が、誘導装置の設定ミスによるソ連領空侵犯のために、ソ連戦闘機に撃墜され、乗客乗員269人が死亡しました。