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『三国志』 の英雄・諸葛孔明

今日8月23日は、中国の後漢末期から三国時代(魏・蜀・呉)・蜀(しょく)の軍略家である諸葛孔明(しょかつ こうめい)が、234年に亡くなったとされる日です。

『三国志』というのは、紀元184年後漢の霊帝即位のころから約100年間の時代をあつかった物語です。後漢の末期に国が乱れ、各地方政権の争いの中から、魏・蜀・呉の3国が生まれました。この3国もまた晋に統一されるという激動の時代を興味深く描いたもので、正式名は『三国志演義』といい、やはり国が乱れて統一された時代・元末から明の始まりのころ(1365年前後)に、羅貫中という人が書いたとされています。しかし、古くからの伝説や戯曲を集大成したものといったほうがよさそうです。

中国は、3世紀にはいると政治がみだれ、あちこちで豪族や武将が勢力をきそい、争いがはげしくなりました。そのなかで曹操と孫権の二人が、強い力をもっていました。やがて、劉備も天下統一をめざしてたちあがります。

劉備には、二人の強いけらいがついていました。でも戦略のうまいけらいがいません。国を建てるには、武力にくわえて知恵と知識のある人をみかたにすることが大切だと考えた劉備は、作戦のうまい人をさがしもとめていました。

そんなとき、壌陽の郊外に、諸葛孔明というかしこい青年がいることを聞きました。さっそく、劉備は馬を走らせましたが、会えません。季節が秋から冬にかわって、ふたたび孔明をたずねました。このときも会えませんでした。草木がいっせいに芽ぶく春、三たびおとずれました。3度めの訪問でやっと会うことができました。

劉備は孔明に、ぜひ力をかりたいと頼みました。孔明は、豪族の出身でしたが、戦乱をさけてひっそりと暮らしていましたので、なかなか承知しません。しかし、劉備が3度もむかえにきてくれたことに感激して、孔明は、家臣になることをちかいました。(このエピソードは「三顧の礼」として有名)

劉備の期待にこたえて、孔明のめざましい活躍が始まります。208年、荊州に攻めこんできた魏の国の曹操を、孔明は呉の孫権と手をくんでむかえうち、曹操を北に追いはらってしまいました。この戦いで、劉備は荊州を手に入れます。その後も領土を広げ、蜀の国を建てました。

そして、またたくまに蜀の国は、魏や呉とかたをならべるまでの勢力になりました。ここに中国全土を3つにわけてにらみあう、三国時代が幕開けとなったのです。

221年、国の名を蜀漢国として、劉備は皇帝となり、孔明は丞相という地位を与えられました。皇帝になった2年ご、劉備は重い病気にかかり、子の劉禅を孔明にたくして亡くなりました。孔明は、幼い皇帝の劉禅をたすけ、成長するにしたがって軍を指揮する方法や政治のあり方を教えました。その教えは、有名な『出師(すいし)の表』に記されています。

234年、孔明は魏の大軍とむかいあった陣地のなかで、病死しました。うわさをきいた魏の大将仲達は、蜀漢軍を一気につぶそうとしました。ところが蜀漢軍は、少しもあわてず、整然としています。仲達はまだ孔明が生きていると思い、あわてて兵をひきあげました。孔明は、それほどすぐれた政治家でした。


「8月23日にあった主なできごと」

1868年 白虎隊の最期…明治新政府軍と旧幕府との間の戦争を戊辰戦争といいますが、旧幕府軍の拠点である会津藩(福島県)に、白虎隊という16歳〜17歳の会津藩士の子弟343人で構成された組織がありました。8月に入ると新政府軍は会津の鶴ヶ城へせまり、落城寸前になった22日、白虎隊の出陣が許され激しい戦いにいどみました。そして翌日、城が煙につつまれているのを見た生き残りの隊員20名は、飯盛山で命を絶ったのでした。

1879年 滝廉太郎誕生…明治時代の洋楽揺籃期に、『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した 滝廉太郎 が生まれました。

1914年 日本対ドイツ戦に参戦…第1次世界大戦がはじまり、日英同盟を結んでいた日本は、ドイツに宣戦を布告しました。ヨーロッパ諸国がアジアから撤退しているすきに、中国に手を伸ばすのが日本のねらいでした。

投稿日:2010年08月23日(月) 08:34

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)