今日8月9日は、鎌倉幕府第3代将軍で、歌人としても著名な源実朝が、1192年に生まれた日です。
1219年(承久1年)1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮で、源実朝が右大臣になったことを祝う拝賀式がおこなわれました。そして、式が終わり、実朝が拝殿から参道までに石段を降りてきたときのことです。かたわらのイチョウの大木のかげからとびだした一人の若者が、実朝に切りかかりました。
実朝は刀をぬくひまもありません。おりから舞い落ちていた粉雪が、一瞬のうちに赤い血に染まり、鎌倉幕府第3代将軍源実朝は、こうして27歳の短い生涯を閉じてしまいまいた。
実朝は、鎌倉幕府を開いた 源頼朝 を父に、伊豆の豪族北条時政の娘だった政子を母に、その次男として生まれました。
実朝が8歳のとき父が亡くなり、兄の頼家が第2代の将軍になりました。ところが頼家は、時政の力で、およそ1年でしりぞけられ、わずか11歳の実朝が、将軍の位につくことになりました。これは、年若い実朝を将軍にして、政治の実権を自分のものにしようとする、時政のたくらみによるものでした。
実朝は、名前だけの将軍になったのです。そのうえ北条氏によって、頼家をはじめ源氏の有力な武将たちが、次つぎにたおされていくと、将軍の位は、ますます飾りものにすぎなくなってしまいました。
少年時代を、一族のみにくい権力争いにまきこまれてすごすうちに、実朝は、和歌、音楽、けまりなど、京の都のみやびやかな文化に、あこがれるようになりました。きっと、心のやすまるものを求めたのでしょう。まもなく京の公家の娘と結婚すると、ますます、都の文化に心をひかれていきました。
実朝は武士です。武士を従える将軍です。しかし、やがて将軍として生きていく道はすてて、朝廷から官位を上げてもらうことだけを、生きがいとするようになりました。そして、右大臣の位を手に入れたときに、死の悲劇がおとずれたのです。
実朝を殺した若者は、実朝の兄頼家の子の公暁でした。
「実朝がいなくなれば、つぎの将軍はあなたですよ」
公暁は、時政の子の義時に、このようにそそのかされて、おじの実朝を殺してしまったといわれています。ところが公暁も、その日のうちに、将軍を殺した大罪人として首をはねられ、一夜のうちに、源氏の血すじは絶えてしまいました。
実朝は、将軍としては無力でしたが、14歳のころから、そのころの最高の歌人藤原定家を師とあおいで、さわやかで力強い和歌をおおくよみました。鎌倉右大臣家集ともよばれる『金槐和歌集』には、約700種の、実朝の歌がおさめられています。
なお、オンライン和歌集「千人万首」では、実朝の和歌70首を解説付きで読むことができます。
「8月9日にあった主なできごと」
1945年 長崎へ原爆投下…8月6日の広島に続き、長崎に原爆が投下されました。広島の原爆はウラン爆弾だったのに対し、プルトニウム爆弾という広島より強力なものでした。しかし平地の広島に比べて長崎の地形が複雑なため、被害は浦上地区に集中しました。それでもこの原爆で数か月以内に7万人が亡くなり、その後に亡くなった人を入れると、15万人ほどの人が命を落としました。