今日8月27日は、インドのカルカッタにあるスラム街で「長期間にわたる献身的な働きにより、苦しみのなかにいる人々に安息をもたらした」としてノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサが、1910年に生まれた日です。今年は、テレサ生誕100年にあたります。
マザー・テレサの本名は、アグネス・ゴンジャ・ボワジュといい、旧ユーゴスラビア(現マケドニア)の古都スコピエの裕福な商人の家に生まれました。両親ともに熱心なカトリック信者で、アグネスも幼いころから教会へかよいました。12歳のときに、貧しさに苦しむインドという国があること、そこで献身的な行動をする宣教師の話を神父から聞き、いつか自分も、貧しい人たちのために生きたいと考えるようになりました。
18歳になったとき、アイルランドにあるロレット修道会が修道女をインドへ派遣していることを耳にしました。さっそく、両親に修道女になりたいと話すと、「もう二度と家にもどれない覚悟があるか」と聞かれ、しっかりうなずくのでした。こうしてダブリンの修道会本部へいき、志願する何人かのシスターたちと共にインドへ渡りました。
2年後に「テレサ」に改名すると、ロレット修道会の経営する学校で先生になり、やがてこの学校の校長にまでなりました。ところが、1946年のある日、ヒマラヤにあるダージリンに向かう列車の中で、「貧しい人の中でも一番貧しい人たちのなかで神に仕えなさい」と内なる神の声を聞きました。この声こそが、その後のテレサの生き方を決定づけたといってよいでしょう。
ロレット修道会を出て、もっとも貧しい人々の中にはいることを決意したテレサは、カルカッタ大司教とローマ法王に修道会の外に出て活動する許可を求めました。でも、修道女が修道会の外に出ることは原則として許されません。テレサの熱心な願いは、ついに聞き届けられ、2年後に例外的に許可がおりました。
テレサが、カルカッタのスラム街に入っていったとき、ポケットにはわずか5ルピーがあるだけでした。テレサの活動は、地面に棒で文字を書いて字を教える青空教室から始まりました。わずか5人からスタートした教室も毎日のように新しい子どもが顔を見せ、1週間後には100人にふくれあがりました。テレサのうわさをきいたロレット修道院時代の教え子も仕事を手伝い、家を提供してくれる人やお金を寄付してくれる人も現われはじめました。このようにしてテレサの拓いた生活共同体は1950年、ローマ法王から、修道会「神の愛の宣教者会」として認可され、このころから「マザー・テレサ」と呼ばれるようになりました。「マザー」は指導的な修道女への敬称です。
1952年になるとテレサは、路上で死にそうになっている人や重症の人たち収容し、最期をみとる施設「死を待つ人々の家」を開設しました。ヒンズー教徒の多い住民の強い反対がおこりましたが、コレラで死にそうなヒンズー教徒の僧を引き取り、死をみとったことがきっかけになって、住民のテレサを見る目が変わっていきました。さらにテレサは、孤児救済のため「聖なる子供の家」を開設、ハンセン病患者専門の診療施設をつくるなど、献身的な活動をインド各地に広げていくのでした。
1979年「高貴な人間愛の象徴」としてノーベル平和賞を受賞したテレサの授賞式でのスピーチは、世界の人たちを感動させました。「私は皆さんが考えておられるようなノーベル平和賞の受賞者にはあたいしません。でも、だれからも見すてられ、愛に飢え、死にひんしている世界のもっとも貧しい人びとにかわって賞を受けました。私には、受賞の晩さん会は不要です。どうか、その費用を貧しい人たちのためにおつかいください」──と。
受賞後も、テレサの行動は少しも変わりませんでした。朝4時に起床、シスターたちといっしょに、路上生活者やごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活です。しかし、1996年頃から心臓発作を起こし始め、持病のマラリアも再発して、1997年9月貧しい人々へ愛を送り続けた87年の生涯を終えました。葬儀はインド政府による国葬として行われ、各国から1万人以上も参列し、人々が沿道をうめつくしたといいます。テレサがいかに宗教や民族を越えた偉大な人物であったかを物語っているかのようです。2003年には、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって、福者(聖人の次位者の称号)に列せられました。
「8月27日にあった主なできごと」
紀元前551年 孔子誕生…古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱えたくさんの弟子を育てた 孔子 が生まれたといわれます。
663年 白村江の戦い…当時朝鮮半島では、新羅(しらぎ)が唐(中国)の力を借りて、百済(くだら)と高句麗(こうくり)を滅ぼして半島を統一しようとしていました。百済から援軍を求められた斉明天皇は、日本水軍を援軍に送りましたが7月に病没、かわって中大兄皇子が全軍の指揮にあたりましたが、この日、白村江(はくすきのえ)で、新羅・唐軍を迎え撃って奮闘しましたが、翌日に敗れてしまいました。
1714年 貝原益軒死去…江戸時代の初期、独学で儒学、国文学、医学、博物学を学び、わが国はじめての博物誌 「大和本草」 などを著わした 貝原益軒 が亡くなりました。
1859年 安政の大獄…大老 井伊直弼 は、水戸の徳川斉昭を永蟄居(ながのちっきょ)、15代将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)を隠居謹慎を命じました。これを恨んだ水戸浪士たちは、翌年3月桜田門外で井伊直弼を暗殺しました。
1957年 日本初の原子の火…茨城県東海村にある原子力研究所の原子炉で、初めて「原子の火」が灯りました。この原子炉は、ウランなどが原子核反応によって得たエネルギーを、発電用に利用するために建設されたものです。
1969年 「男はつらいよ」第1作公開…山田洋次監督・渥美清主演の映画シリーズ「男はつらいよ」第1作が公開されました。シリーズは48作にもおよび、国民的映画シリーズとなって、ギネスブックの世界最長記録にも認定されました。