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日本外交の父・陸奥宗光

今日7月7日は、イギリスとの治外法権を撤廃、日清戦争後の下関条約締結の全権大使をつとめるなど、近代日本の外交を支えた陸奥宗光(むつ むねみつ)が、1844年に生まれた日です。

江戸幕府を倒した明治政府にとって、いちばん頭のいたい問題は、1858年に江戸幕府が、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの各国と結んだ通商条約でした。外国人が罪をおかしても、治外法権ができたことによって日本の法律でさばくことができませんし、外国からの輸入品に関税をかけるのも、自由に決められないという、たいへん不平等な条約だったからです。この条約を改正するという難問に取り組み、解決へ努力したのが、陸奥宗光でした。

1844年、宗光は、和歌山藩士伊達宗広の6番目の子としてうまれました。藩の政治にたずさわり、国学にもすぐれていた宗広の血を受けついだ宗光は、本を読んだり、議論をしたりすることが大好きな少年でした。

18歳のころ、京都で 坂本龍馬 と知り合った宗光は、龍馬の組織した海援隊に入り、討幕運動に加わりました。

明治維新ののち、政府の役人となった宗光は、持ち前の能力と、おうせいな行動力で、外国事務局御用係、地租改正局長を歴任し、1875年には元老院幹事に任命されました。しかし、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の出身者による政権の独占に不満をいだいて、役人をやめてしまいました。

西南戦争のおこった1877年、宗光は政府を倒す計画に参加したとして、投獄されました。そして、獄中にあった5年のあいだに宗光の考えは、大きく変わりました。

「政府を外から変えようとしてもだめだ。それよりも、政府のなかにいて仕事をとおして変えていこう」

宗光は、刑期を終えると、ヨーロッパへ留学しました。外国の政治を、自分の目でたしかめたいと思ったのです。

2年後、帰国した宗光はふたたび役人となり、伊藤博文 内閣の外務大臣に就任しました。このとき「政府を倒そうとした男をなぜ大臣にするのですか」といわれた博文は「そのくらいの人物でなければ、あの仕事はつとまらない」と言ったと伝えられています。博文の言ったあの仕事とは、明治政府がかかえていた最大の難問、5か国との不平等な条約を改正することです。

宗光は、各国とねばり強く交渉をつづけ、1894年ついにイギリスと、治外法権をなくすという条約改正に成功しました。そして、よく年、清国(中国)との講和会議が下関(山口県)で開かれたときには、博文とともに全権として、日本に有利な条件で講和条約を結びました。

しかし、講和会議の2年後、病気のため53歳で亡くなりました。


「7月7日の行事」

今日7月7日は、「七夕」です。こんなロマンチックな中国の伝説が、もとになっています。

天の神様の娘の織女星(こと座のベガ)は、美しい織物を織る名手でした。とても仕事熱心なため、年頃になってもボーイフレンド一人作りません。かわいそうになった神様は、天の川のむこうに住む働き者の牽牛星(わし座のアルタイル)という若者と結婚させました。ところが、結婚すると二人は、あんまり毎日が楽しくて織女星は織物を織らなくなり、牽牛星も牛を追わなくなったのです。怒った神様は、天の川のこちらの岸に織女星を連れもどし、1年に一度の「七夕の夜」だけ向こう岸に行ってよいことにしたのです。7月7日の晩、空が晴れると、白鳥たちが天の川にたくさん舞い降りて、翼で橋を架けてくれます。織り姫はその白鳥たちの橋を渡って牽牛に会いに行くのです。

いっぽう日本には、「棚機つ女(たなばたつめ)」という民間信仰がありました。少女はこの日に、身を清めて衣を織り、機織り機の棚の上に置いて、神様をお迎えし、穢れを取り去ってもらうというもので、この伝統と中国の伝説がいっしょになって、7世紀の頃から宮中の行事になり、江戸時代の末期になって、一般の人たちもこの行事をはじめるようになったといわれています。


「7月7日にあった主なできごと」

1615年 武家諸法度発布…5月に大坂夏の陣で、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、2代将軍の徳川秀忠の名で全国諸大名に「武家諸法度」13か条を発布しました。自分の領地と江戸とを1年ごとに毎年4月に参勤することを指示した参勤交代制、築城の厳禁、幕府による大名やその側近の結婚許可制などの統制令でした。

1622年 支倉常長死去…江戸時代初期の仙台藩主伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ渡航した 支倉常長 が亡くなりました。

1930年 コナン・ドイル死去…名探偵シャーロック・ホームズシリーズを生み出したイギリスの作家コナン・ドイルが亡くなりました。(ホームズシリーズの1冊 『バスカビル家の犬』 は、オンラインブックで読むことができます)

1937年 盧溝橋事件…北京に近い盧溝橋で、中国・国民党政府軍と日本軍との間に発砲事件がおこりました。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となったこの事件をきっかけに、日本軍と中国は戦争状態に突入し、戦線を拡大していきました。

投稿日:2010年07月07日(水) 08:50

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)