児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  短編の名手・モーパッサン

短編の名手・モーパッサン

今日7月6日は、『脂肪の塊』『首飾り』などの短編をおよそ260編も遺したフランスの作家モーパッサンが、1893年に亡くなった日です。モーパッサンには『女の一生』など長編6編もあります。

短編の代表作『首飾り』は、次のような内容です。

下級役人ロワゼルと結婚したマルチドは、パリでつつましい生活を送っていました。でも、気位の高い美ぼうを鼻にかけた性格のマルチドには、それが不満でなりません。毎日のように、豪華な居間や晩さんを空想しては、気をまぎらすのでした。

そんなある日、ロワゼルは、華やかな場に出て注目をあびたい妻のために、苦労して舞踏会の招待状を手に入れました。ところがマルチドは喜ぶどころか、舞踏会に着ていくドレスがないじゃない、と悲しそうにいいます。

そこでロワゼルは、猟銃を買うためにためておいた400フランのお金をはたいて、マルチドのためにドレスを買ってあげました。でもマチルドは、舞踏会につけていくアクセサリーがないから、行きたくないといいます。幸運なことに、マルチドにはフォレスティエ夫人という富豪の友人がいました。なんとかマルチドは、夫人からダイヤをちりばめた首飾りを借りることに成功しました。

着飾ったマルチドは舞踏会へ出かけ、その美ぼうと愛らしさで舞踏会の人気をひとり占めにしたのでした。マルチドにとって、まさに夢のようなひと時で、幸せな気分に酔いしれました。夫のロワゼルも、そんなかわいらしい妻を持ったことに満足しました。

疲れて家に帰り、ドレスを脱いでから、マルチドはとんでもないことに気がつきました。先ほどまであったダイヤの首飾りがなくなっているのです。必死で探しましたが見つからないため、修繕に出したので1週間ほど待ってほしい、と夫人に伝えました。

マルチドとロワゼルは、弁償のために同じ首飾りを探しまわりますが、なかなか見つかりません。ようやく紛失したものと同じ首飾りを見つけましたが、その値段は何と3万6千フランもします。

ロワゼルは親から譲り受けた遺産と、あちこちから金を借りまくり、なくした首飾りと同じものを買いもとめ、フォレスティエ夫人に無事返すことができました。この日からマルチドとロワゼルの借金返済の苦しい日々がはじまりました。

マルチドは必死に働き、ロワゼルは内職までして赤貧の暮らしを続けること10年。マルチドは自分の容姿のことや身なりのことなどまったく気にしない、たくましい女性になっていました。こうして借金を返し終わったある日、シャンゼリゼ通りでフォレスティエ夫人に偶然あいました。変わりようにおどろく夫人に、マルチドはいっさいのできごとを、誇らしくつげるのでした。

びっくりした夫人は、マルチドの手をとって「まあっ! お気の毒なことをしたわ。あの首飾りはまがいものだったのよ。せいぜい500フランくらいのものだったのに……」


モーパッサンは1850年、フランスのノルマンディー地方のブルジョワ階級の両親のもとに生まれました。

12歳のときに父母が別居し、まもなく神学校の寄宿舎に入るもなじめないため、母はモーパッサンと妹を連れてルーアンに移り住みました。高等中学で大学入学資格を得てパリ大学に入学しましたが、普仏戦争の遊撃隊として召集された後、海軍省の役人になりました。その頃おじの親友で『ボヴァリー夫人』の著作で有名なフローベールを紹介してもらい、小説の指導を受けるようになりました。ツルゲーネフ、ゾラ、ドーデーら若手の作家に出あって親交を結び、1875年に短篇『剥製の手』が雑誌に掲載されて評判になりました。

1880年に発表した短編『脂肪の塊』あたりから文豪としての地位を確立していき、1883年に刊行した長編『女の一生』は、トルストイ にも評価され、ベストセラーとなりました。

活発な執筆出版活動のかたわら、ひんぱんに旅に出ては海浜での水遊びに興じましたが、1885年ころから眼病に苦しみはじめ、1888年には不眠や神経症に悩んで、麻酔薬を乱用するようになりました。1892年に自殺未遂を起こして精神病院に収容され、1893年43歳の若さで亡くなりました。


「7月6日にあった主なできごと」

1783年 浅間山の大噴火…長野と群馬の県境にある浅間山がこの日に煙を吐き出し、2日後に大爆発をおこし、火砕流が村々を襲って、2万人の命を奪いました。火山灰が広い地域をおおったため作物が出来ず、天明の飢饉の要因となりました。

1885年 狂犬病ワクチン…フランスの細菌学者・化学者の パスツール が、1885年に狂犬病ワクチンを初めて人体に接種しました。

1912年 初のオリンピック参加…ストックホルムで開催された第5回オリンピックに、日本選手2名が出場しました。

1917年 アラビアのロレンス…トルコに抵抗するアラブ人の反乱を支援していたイギリス軍人トマス・エドワード・ロレンスは、ヨルダン南部の都市アカバにあるトルコ軍基地を奇襲して陥落させました。これら一連のオスマントルコからのアラブ独立闘争をえがいた映画「アラビアのロレンス」は1962年に公開(日本公開は1963年)され、世界中で大ヒットしました。

投稿日:2010年07月06日(火) 08:02

 <  前の記事 下山事件  |  トップページ  |  次の記事 日本外交の父・陸奥宗光  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2107

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)