今日6月21日は、フランスの哲学者、小説家、劇作家、評論家として活躍したサルトルが、1905年に生まれた日です。
「人間は、たとえ人生がむだにあたえられたものであっても、自分の未来は自分でつくりだして、人生に価値を生みださなければいけない。自分の生き方は自分でえらびとるべきだ。自分の人生を自分でえらべるからこそ、人間は自由である。しかし、自由であるかわりに、自分が生きていることについては、すべて、自分が責任をもたなければならない」
ジャン・ポール・サルトルは、このような考えの実存主義をもとにして人間のあり方を追究した、フランスの知識人です。
サルトルは、海軍の技術将校だった父を2歳のときに失い、およそ10年後に母が再婚するまでは、祖父の家で育てられました。このとき、空想科学小説などを読みふけり、早くから、自分でも物語を書きはじめたということです。
19歳で、高等師範学校へ入学しました。サルトルが、その後ひとすじに愛しつづける女流作家ボーボアールにめぐりあったのは、ここで哲学を学んでいたときのことです。ふたりは、おたがいの自由をみとめあって、正式には結婚しませんでした。しかし愛情は、ふつうの夫婦以上に深かったといわれています。
師範学校を卒業したサルトルは、徴兵義務で2年ほど軍隊生活を送ったのち、高等中学校の教師になりました。そして、世界の名作を読みかさねて自分の思想をみがき、哲学の論文や短編小説を発表して、哲学者、小説家の道を歩みはじめました。
1938年、長編小説『嘔吐』を発表すると、サルトルの名はいちどに高まりました。実存主義に心をよせてきたサルトルは、この作品のなかで「人間の存在の意味」を、するどく追究してみせたのです。そして、数年後には『蠅(はえ)』『出口なし』などの戯曲も発表して、人間が生きていくために背負わなければならない問題を、さらに深く問いかけました。
いっぽう、1943年には、哲学の大著『存在と無』を著して、ここでも「人間は、どうしたら自己の存在をみとめることができるか」を、問いつめました。
第2次世界大戦が終わった1945年には教職をしりぞき、その後は、長編小説『自由への道』をはじめ戯曲『汚れた手』『悪魔と神』などを書きつづけました。そして1964年には、ノーベル文学賞の受賞者にえらばれました。しかし、人間の自由をたいせつにしたサルトルは、受賞をことわってしまいました。
「人間は、自分の意思と判断で、生きていかねばならない」
このことを訴えつづけたサルトルは、1980年に75歳で亡くなりました。人間とは何かを考えつづけながら……。
「6月21日にあった主なできごと」
1793年 林子平死去…江戸幕府の鎖国政策に対し、警告を発した海防学の先駆者 林子平 が亡くなりました。
1852年 フレーベル死去…世界で初めて幼稚園をつくるなど、小学校就学前の子どもたちのための教育に一生を捧げたドイツの教育者 フレーベル が亡くなりました。
1970年 スカルノ死去…オランダ植民地時代から民族主義運動、独立運動をおこし、独立宣言後インドネシア初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって「国父」として今も愛されている スカルノ が亡くなりました。