今日6月10日は、平安時代中ごろの天台宗の僧で、『往生要集』を著して浄土教を広め「恵心僧都(えしんそうず)」と讃えられた源信が、1017年に亡くなった日です。
源信が、まだ15歳のころ、仏教を深く学んでいることがみとめられて朝廷へまねかれ、法華経の講義をしてたくさんのほうびをもらいました。源信は、その喜びを母へ伝えました。すると、母からの返事には、きびしいことばがつづられていました。
「あなたの名が高まるのを望んではいません。修行をつみ、世を救えるりっぱな僧になってくれることだけを願っています」
源信は、母のこのことばに心をうたれ、そののちは自分の欲望を捨てて、修行ひとすじにうちこんだということです。
源信は、942年に大和国(奈良県)で生まれると、7歳で父を亡くし、その父の遺言で9歳のとき比叡山にのぼり、延暦寺の僧良源の弟子になりました。生まれつきすぐれた才能をもっていた源信は、またたくまに山のような仏教の本を読みつくしました。そして、まだ10歳をすぎて数年もたたないうちに、その名は朝廷にまでとどき、僧としての出世の道は大きくひらかれました。
しかし、ここで母からの手紙が源信の歩む道をかえさせたのです。母のいましめで心を入れかえなかったら、たとえ地位の高い僧になることはできても、のちの世まで名僧とたたえられるようには、ならなかったかもしれません。
そののちの源信は、延暦寺の北の恵心院にこもって、一心に、仏の道をさぐりました。源信が恵心僧都とよばれるのは、ここで修行と勉強にはげんだからです。
985年、43歳の源信は、全部で3巻の『往生要集』という本を著わしました。それは数限りないお経の本から、地獄と極楽のありさまを示したところをぬきだして、極楽浄土に生まれかわることのありがたさを説き、その極楽浄土へ行くためには、なぜ念仏をとなえなければならないのか、また、念仏はどのようにとなえるのがよいのかを教えたものです。
「ひたすらに念仏をとなえれば、だれでも極楽へ行ける」
貴族も民衆も、この教えにとびつきました。また、この『往生要集』は中国へもおくられて、宋の人びともすぐれた内容におどろき、源信をうやまったということです。
62歳のときには、朝廷から権少僧都の位がおくられましたが、栄誉をのぞむ気持ちはなく、その位は朝廷へ返しました。源信は『往生要集』のほかにも、人を極楽へみちびく本をいくつも書いて、75歳で生涯を終えました。そののちの鎌倉時代には浄土教がさかんになりましたが、そのもとになったのは『往生要集』で、浄土宗、浄土真宗の聖典の一つとされています。
「6月10日にあった主なできごと」
1628年 徳川光圀誕生…水戸黄門の名でしたしまれ、徳川家康の孫にあたる第2代水戸藩主の 徳川光圀 が生まれました。
1863年 緒方洪庵死去…大阪に適々斎塾(適塾)を開き 福沢諭吉 や大村益次郎らを育てた教育者として、また蘭医として種痘を広め天然痘の予防に尽力した 緒方洪庵 が亡くなりました。
1920年 時の記念日…「日本書紀」によると 天智天皇(中大兄皇子) が「漏刻」という水時計を作り鐘を打った日と記されています。東京天文台と生活改善同盟会はこれを記念して「時間を大切にすることを、改めて考え直そう」と呼びかけ、6月10日を「時の記念日」に制定しました。