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「太平天国」 と洪秀全

今日6月1日は、アヘン戦争でイギリスに敗北して威信を失った清(中国)南部に、平等な世界を理想とする「太平天国」の建設をめざし、14年間にわたり革命運動をおこした洪秀全(こうしゅうぜん)が、1864年に亡くなった日です。

1813年、広東省の貧しい農村に生まれた洪秀全は、役人になるつもりで科挙をめざしましたが何度も失敗、失望のため重い病にふせてしまいました。その病床で、洪秀全は夢によって暗示をうけました。それは、天上にのぼって天帝エホバにあったところ、金印とひとふりの剣を与えられ、下界の悪魔を退治するようにいわれたのです。

病が治ったのち、洪秀全はキリスト教の書物を読んで感動し、上帝会という秘密の宗教団体をこしらえて布教するようになりました。入信すれば男女問わず平等で、自身をキリストの弟、エホバの次子とし、人間界で神の意思を実行する者としました。
 
広州付近で布教を行いましたがあまり成功しなかったため、1844年に広西省に移動しところ、増税に苦しむ農民やアヘン戦争で職を失った兵士や船頭らに受け入れられ、信徒を急速に増やしていきました。

そして1851年の初め、洪秀全は天王と自称して、太平天国を建国しました。洪秀全は、さらに北へ北へ進軍し、行く先々で貧しい農民たちを加え、みるみる大軍になって、最早おしとどめることができない規模と強さを持つまでになりました。軍隊は男子軍と女子軍にわけ、きびしい掟を守らせながら、悪事を働く役人たちをこらしめたばかりでなく、役人から衣服や食物をとりあげて貧しい人たちに分け与えました。

1852年、太平天国軍は広西から湖南へと進出、1853年には南京を陥落させ、この地を天京と改称して太平天国の首都に定めました。太平天国建国のころには数千人にすぎなかった軍隊は、南京陥落のころには20万、2〜3年後にはさらに50万人とも100万ともいわれる兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至りました。

しかし、満州人のたてた王朝である清を倒し中国人の国にしようと北京をめざした太平軍でしたが、1855年ごろから外国の援助を受けた清朝の反撃が厳しくなり、主だった指導者たちの仲たがいもあって、太平天国の勢力はしだいに衰えをみせるようになりました。

太平天国討伐のための清軍が天京に迫りはじめましたが、数年間はこの攻撃を撃退していきました。しかし1862年、洪秀全の片腕が清軍に殺害されると、太平天国は急速に勢いを失い、天京周辺の拠点が清軍に奪回されたばかりか、天京が包囲されて食料不足をひきおこし、洪秀全は病におかされ病死しました。毒を飲んで自殺したという説もあります。

こうして7月、太平天国の都天京は清軍に滅ぼされました。清朝もまた長い間の戦争で財政は行き詰まり、西欧列強はその弱みにつけこんで、多くの利益を横取りするようになっていったのです。


「6月1日にあった主なできごと」

1947年 初の社会党内閣…片山哲単独一人内閣として1週間前にスタートした内閣でしたが、この日民主党など3党連立による閣僚人事が決まり、初の社会主義首相による内閣が本格的に発足しました。片山はクリスチャンで、キリスト教的人権思想と社会民主主義の融合を実践した代表的な人物の一人ですが、内閣は翌年3月までの短命に終わりました。

1968年 ヘレンケラー死去…生後19か月で目・耳・口の機能を失いながらも、著述家、社会福祉事業家として活躍した ヘレンケラー が亡くなりました。

投稿日:2010年06月01日(火) 09:21

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)