今日5月28日は、曾我十郎と曾我五郎の兄弟が父親の仇である工藤祐経(すけつね)を討った事件が、1193年におきた日です。
源頼朝 は、鎌倉幕府を開いた翌年のこの日、富士のすそ野で大がかりな狩りを開催しました。狩場を四方から取り巻き、動物を追いつめて捕らえる「巻狩り」という狩猟で、鎌倉幕府のためにてがらのあった工藤祐経も参加していました。
夜更けになって、雷鳴をともなう豪雨になりました。この激しい雷雨をついて、祐経の陣屋にせまる2つの影がありました。これが祐経をねらう曽我兄弟でした。兄弟はたやすく祐経の寝所に潜入することができました。祐経は友人と酒盛りの果て、熟睡におちいったばかりの時でした。兄弟は祐経の枕をけって「祐経どの、父の仇、お覚悟!」とさけびながら、祐経の首を斬り落としたのでした。
ところが、祐経と同じ寝所にいた者たちが叫びまわり、将軍頼朝の寝所もすぐ近くにあったため大騒動となりました。兄弟はここで10人斬りの働きをしますが、兄の十郎は見回りの武士に斬られ、弟の五郎は頼朝を殺そうと本陣めがけて進むうち、捕われてしまいました。そして、祐経の子である犬坊丸の命を受けた者が、わざと鈍刀を使って五郎の首を押し切ったのでした。このさまを見た人々は、あまりの残酷さに念仏をとなえて五郎の後生を祈ったと伝えられています。
そもそも、この仇討ちのきっかけとなったのは曽我兄弟の4代前からの土地をめぐる争いからで、曽我兄弟は父と祖父を失い、頼朝のさばきで土地を祐経に奪われたのでした。この仇討ち事件は、とても評判になって兄弟は「鎌倉武士の手本」といわれました。武士たちにとって、自分が土地争いにまきこまれて土地を失ったらどうなるのだろうと、落ちぶれた兄弟に同情よせたのでしょう。土地のうらみから、将軍にも手むかう兄弟へひそかに拍手を送ったのです。
「富士のすそ野の仇討ち」は、後に『曽我物語』として語られ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられて民衆の人気を得ました。そして、赤穂浪士の討ち入り、荒木又衛門が助太刀した伊賀越えの仇討ちとともに、日本3大仇討ちの一つとされています。
「5月28日にあった主なできごと」
1634年 出島の建設開始…キリスト教の信者が増えることを恐れた江戸幕府は、ポルトガル人をまとめて住まわせるために、長崎港の一部を埋めたてた出島の建設を開始、2年後に完成させました。1639年にポルトガル人の来航を禁止してから無人になりましたが、1641年幕府はオランダ商館を平戸から出島に移転させ、オランダ人だけがこの島に住むことが許されました。そして鎖国中は、オランダ船が入港できた出島がヨーロッパとの唯一の窓口となりました。
1871年 パリ・コミューン崩壊…普仏戦争の敗戦後、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されましたが、この日政府軍の反撃にあい、わずか72日間でつぶれてしまいました。しかし、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。